黒田清隆内閣

高校日本史的重要度
★★★

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黒田清隆内閣 (くろだきよたかないかく)

1888年〜1889年

【概説】
1888年(明治21年)、初代首相・伊藤博文の跡を継いで成立した薩摩閥・黒田清隆を首班とする第2代内閣。翌年に大日本帝国憲法を発布するという近代日本の枠組みを決定づける歴史的偉業を成し遂げたが、直後に政党の動向に左右されない「超然主義」を表明し、その後の藩閥政府と民党(政党)との激しい対立の原点を作った政権である。

伊藤博文からの交代と大日本帝国憲法の発布

1885年に創設された内閣制度の初代総理大臣を務めていた伊藤博文は、憲法草案の審議に専念するため、自ら新設された枢密院(すうみついん)の議長に転出した。その後を受けて、1888年(明治21年)4月に組閣したのが、薩摩閥の重鎮である黒田清隆(くろだきよたか)である。

黒田内閣の最大の歴史的使命は、完成しつつあった憲法を無事に制定し、国家体制を盤石なものにすることであった。そして1889年(明治22年)2月11日、明治天皇から黒田首相に手渡される(欽定憲法)という形式で、アジア初の近代憲法である大日本帝国憲法が発布された。これと同時に衆議院議員選挙法なども公布され、翌年に迫った第1回帝国議会の開設に向けた法的な準備が整うこととなった。

歴史的演説「超然主義」の表明とその意図

憲法発布の翌日である2月12日、黒田首相は鹿鳴館に地方長官(現在の知事)らを集め、歴史的な演説を行った。その中で黒田は、「政府は常に一定の方向を取り、政党の動向の枠外に立って、至公至平の道を進まなければならない」と宣言した。これが有名な「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」の表明である。

当時、板垣退助や大隈重信らが率いる自由民権運動の流れを汲む政党勢力は、来るべき議会開設に向けて活発な動きを見せていた。黒田や伊藤ら藩閥の指導者たちは、政党政治家が議会を通じて国家の政策や人事を左右することを極度に警戒していたのである。超然主義は、「行政権(内閣)は議会や政党の意向に左右されず、天皇に対してのみ責任を負う」という藩閥政府の基本姿勢を公式に宣言したものであり、初期議会において政府と政党(民党)が激しく衝突する決定的な要因となった。

地方自治制の確立と保守基盤の強化

黒田内閣のもとでは、国政レベルの憲法制定と並行して、内務大臣・山県有朋(やまがたありとも)の主導による地方制度の整備も強力に推し進められた。1888年に市制・町村制が公布され(翌年施行)、日本の近代的な地方自治の骨格が形成された。

山県がこの時期に地方制度を急いだ理由は、間近に迫った国会の開設に備え、地方の有力者(名望家)を政党の勢力から切り離し、国家の行政末端を担う保守的な基盤として組織化するためであった。つまり、地方制度の確立もまた、政党の進出を防波堤のように食い止めようとする超然主義的な国家構想と表裏一体の政策だったのである。

条約改正の挫折と内閣の瓦解

憲法制定という大事業を成し遂げた黒田内閣であったが、その命脈は長くは続かなかった。致命傷となったのは、幕末以来の最大の外交課題である条約改正の失敗である。

黒田内閣は、外務大臣に政権外(旧改進党系)から大隈重信を抜擢し、不平等条約の改正交渉にあたらせた。大隈は諸外国と粘り強く交渉したが、妥協案として「大審院(最高裁判所)に外国人裁判官を任用する」という条項を認めていたことがロンドン・タイムズの報道で発覚すると、国内の国家主義者や民権派だけでなく、閣内からも猛烈な反対運動が巻き起こった。

1889年10月、大隈外相が右翼団体・玄洋社の青年(来島恒喜)に爆弾を投げつけられ片足を失う重傷を負うと、条約改正交渉は完全に頓挫した。黒田は責任を問われて辞表を提出し、内閣は瓦解した(その後、一時的に三条実美が内閣を代行するという異例の事態となった)。超然主義を掲げて力強く発足した黒田内閣は、皮肉にも世論の猛反発とテロリズムの前に崩れ去り、明治国家の行く手には議会との険しい対立の道が待ち受けていたのである。

最終更新:
2026年10月5日 @ 18:42

日本史一問一答(ランダム)

Q. 藤原清衡が戦死者の供養と極楽浄土の現出を願って平泉に建立し、金色堂が現存する寺院はどこか。
Q. 憲法調査のために渡欧した伊藤博文に対し、ドイツのベルリン大学で君主権の強いプロイセン流の憲法理論を講義した法学者は誰か?
Q. 戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官として厚木飛行場に降り立ち、日本の占領統治を主導した人物は誰か?