欽定憲法 (きんていけんぽう)
【概説】
国家の主権者である君主(天皇)が、自らの権力に基づいて制定し、国民に下賜(かし)するという形式をとった憲法のこと。日本史においては、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法がこれに該当する。対義語は、国民の意思に基づいて制定される民定憲法である。
憲法の制定主体による分類と「欽定」の意味
近代憲法は、その制定権力を誰が有しているかによって主に三つに分類される。君主の単独の意思によって制定される欽定憲法、君主と国民(議会)の合意によって制定される協定憲法、そして主権者である国民の意思に基づいて制定される民定憲法である。欽定憲法という形式においては、国家の主権はあくまで君主に存するとされ、憲法は「君主が自らの権力をあえて制限し、臣民に対して与えた恩恵」という建前をとる。19世紀後半のヨーロッパ、特に君主権が強大であったドイツ帝国やプロイセンにおいて典型的に見られた形式であり、近代国家の形成を急ぐ明治政府はこれをモデルとした。
大日本帝国憲法の制定過程と「欽定」の選択
明治維新後の日本国内では、自由民権運動が高揚し、国会開設や憲法制定を求める声が急速に広がっていた。民権派の多くは、イギリス型の議院内閣制やフランス型の急進的な民主主義を志向し、国民の側から私擬憲法と呼ばれる独自の憲法草案を多数作成した。これに対し、伊藤博文や井上毅を中心とする明治政府は、天皇の権威を不可侵の中心軸として国家の求心力を保つため、君権の強いプロイセン憲法を範とすることを決定した。
民権派による急進的なデモクラシーを警戒した政府は、憲法の起草作業を国民の参加を完全に排除した状態で秘密裏に進めた。最終的な審議も天皇臨席のもと枢密院という非公開の場で行われ、1889年(明治22年)2月11日(紀元節)、明治天皇から黒田清隆首相に手渡されるという劇的なセレモニーを伴って発布された。この一連の過程こそが、大日本帝国憲法がまぎれもない「欽定憲法」であることを象徴している。
欽定憲法体制下の国家構造と天皇大権
大日本帝国憲法が欽定憲法であることは、その条文にも明確に表れている。第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」すると規定された。これにより、議会の関与を受けない広範な天皇大権(緊急勅令の制定権、宣戦講和の権限、陸海軍の統帥権など)が憲法上保障された。
また、国民は主権者ではなく天皇の「臣民」と位置付けられ、言論や集会の自由などの基本的人権も、天賦人権説に基づく絶対的なものではなく、「法律ノ範囲内ニ於テ」という制限付きで認められる恩恵的な権利に留まった。この欽定憲法という形式は、天皇制という絶対的な権威によって政府を民衆の政治的圧力から保護し、上からの近代化と富国強兵を強力に推し進めるための法的基盤として機能したのである。
歴史的意義と民定憲法への歴史的転換
大日本帝国憲法は、アジア初の本格的な近代成文憲法として、日本が欧米列強と肩を並べる法治国家であることを世界に示す重要な役割を果たした。しかし、欽定憲法ゆえに君主権を絶対視した結果、「統帥権の独立」などの構造的欠陥を内包することとなり、これが昭和期における軍部の独走を許し、国家を破局へと導く一因ともなった。
1945年(昭和20年)の敗戦とポツダム宣言受諾を経て、日本は主権在民を基本原則とする民主化の道を歩み出すこととなる。1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は、法的な連続性を保つために形式上は大日本帝国憲法第73条の改正手続きを踏んだものの、その本質においては国民主権に基づく民定憲法への完全な転換であった。これにより、半世紀以上にわたって日本の国家体制を規定した欽定憲法の時代は終焉を迎えたのである。