安土城
【概説】
1576年(天正4年)に織田信長が近江国琵琶湖畔の安土山に築城を開始し、天下統一の拠点とした城郭。壮麗な五層七重の「天主」を構え、日本の城郭建築に革命をもたらしたが、1582年の本能寺の変の直後に焼失し、短命に終わった。
天下布武の総仕上げと安土築城の背景
1575年(天正3年)の長篠の戦いで武田勝頼を破り、翌年には最後の将軍・足利義昭を追放して室町幕府を事実上滅亡させた織田信長は、自らの天下統一事業(天下布武)を推し進めるための新たな拠点を必要としていた。そこで白羽の矢が立ったのが、近江国蒲生郡の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町)である。安土は当時の首都である京都に近く、琵琶湖の水運を最大限に活用できるうえに、東海道・東山道(中山道)や北陸道へと通じる交通の要衝であった。1576年(天正4年)、信長は重臣の丹羽長秀を総奉行に命じ、天下人の権威を示すにふさわしい前代未聞の巨大城郭の建設に着手したのである。
日本城郭史を画する「天主」と革新的な構造
安土城の最大の特徴は、山頂にそびえ立つ五層七重(地上6階、地下1階)の巨大な建造物である。信長はこれを「天守」ではなく「天主」と表記させた。外観は各層が朱塗りや黒漆塗り、金箔瓦で彩られ、最上階は金色に輝いていたと伝わる。内部は狩野永徳の手による絢爛豪華な金碧障壁画で装飾されており、軍事的な防御施設という本来の城の役割から、支配者の権力と威信を誇示するための「見せる城」へと城郭の概念を大転換させた。また、近江の石工集団である穴太衆(あのうしゅう)を動員して築かれた総石垣造りの技術は、その後の近世城郭の基本モデルとなった。
革新的な城下町支配と経済政策
信長は城の建設と並行して、家臣団を城下町に集住させることで兵農分離を推し進めた。さらに、安土の城下町を繁栄させるため、1577年(天正5年)に「安土山下町中掟書(あづちさんげちょうじゅうおきてがき)」を発布した。これは、座の特権を廃止して自由な商売を認める楽市・楽座の徹底、関銭(通行税)の免除、徳政令の適用除外などを定めた画期的な法令であり、全国から多くの商人や職人を呼び寄せることに成功した。安土城下は、信長の合理的で重商主義的な経済政策を具現化した最先端の都市空間であったといえる。
本能寺の変による焼失と歴史的意義
1579年(天正7年)に信長は事実上完成した天主に移り住み、ここから中国地方の毛利氏や北陸の上杉氏などに対する経略を指揮した。しかし、その栄華は長くは続かなかった。1582年(天正10年)、本能寺の変によって信長が家臣の明智光秀に急死に追いやられると、光秀軍が安土城を一時占拠した。その後、山崎の戦いで光秀が羽柴(豊臣)秀吉に敗れた直後、原因不明の出火によって天主や本丸などの主要建築物はすべて焼失してしまった(織田信雄による失火説や、敗残兵・野盗の略奪による放火説など諸説あり)。わずか数年で灰燼に帰した安土城であったが、天主や高石垣、計画的な城下町といった革新的な要素は、秀吉の大坂城や江戸時代の城郭建築へと継承され、日本の歴史において中世から近世への転換を力強く象徴する極めて重要な存在として位置づけられている。