関所の廃止(関所撤廃)

織田信長が交通を自由にし、物資の流通を活発にするために領内で行った、関銭などを撤廃した政策を何というか?
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★★★

【参考リンク】
小仏関所(Wikipedia)

関所の廃止(関所撤廃)

1568年〜

【概説】
戦国大名である織田信長が、自らの支配領域において関銭(通行税)を徴収する関所を破壊・撤廃した経済および交通政策。中世を通じて乱立していた関所を廃止することで人や物資の流動性を飛躍的に高め、自由な商業活動を促進するとともに、特権階級の既得権益を打破した。

中世における関所の乱立とその弊害

日本の中世(鎌倉時代から室町時代)において、関所は主に朝廷や公家、有力な寺社によって交通の要衝に設けられていた。彼らは関所を通過する商人や旅人から関銭(せきせん)や津料(つりょう・港の通過税)を徴収し、自らの重要な財源としていた。しかし、室町時代後期から戦国時代にかけて幕府の権威が失墜すると、各地の在地領主や国人までもが勝手に「新関(しんせき)」と呼ばれる非合法な関所を乱立させるようになった。

この関所の乱立は、商品流通のコストを著しく高騰させる原因となった。幾重にもかけられた通行税は商品の価格に転嫁され、また関所での煩雑な手続きや役人の横暴は、商人や旅人の自由な移動を阻害し、広域的な経済発展における極めて大きな障害となっていた。

織田信長による関所撤廃と政治的意図

領国の拡大に伴い、富の源泉である「流通」の重要性にいち早く気づいていた織田信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たすと、直ちに畿内および自らの領国を対象とした大規模な関所廃止令を打ち出した。信長は領内の関所を物理的に破壊し、いかなる名目であれ関銭を徴収することを厳しく禁じたのである。

この政策は、単なる交通・物流の円滑化を狙った経済政策にとどまらない。中世的な関所を運営していたのは、比叡山延暦寺などの有力寺社や朝廷の公家といった旧来の支配層であった。信長が関所を撤廃した背景には、これら特権階級が握っていた既得権益を真っ向から否定し、その経済基盤を切り崩すという極めて冷徹な政治的意図が隠されていた。同時に、在地領主による勝手な関所設置を禁じることで、領内における自らの排他的・一元的な支配権を誇示する目的もあった。

「楽市・楽座」との連動と経済・軍事的効果

関所の廃止は、信長の代名詞とも言える楽市・楽座の政策と表裏一体をなすものである。同業者組合である「座」の特権を廃止して自由な市場(楽市)を創設しても、そこに至るまでの交通網が関所で寸断されていては意味がない。関所の撤廃によって輸送コストが劇的に下がり、安全な移動が保証されたことで、全国から多数の商人や職人が信長の城下町へと吸い寄せられた。

この徹底した自由商業主義は、信長の支配領域に未曾有の経済的繁栄をもたらした。さらに、人や物資の滞りない移動は、鉄砲や火薬をはじめとする大量の軍需物資の迅速な調達を可能にし、さらには軍隊(兵員)の機動的な移動を容易にするなど、信長の天下統一事業を後方から力強く支える兵站(へいたん)基盤となった。

歴史的意義と近世社会への移行

信長が断行した関所の廃止は、その後、天下人となった豊臣秀吉によって全国規模の政策として引き継がれ、中世的な関所は日本列島から完全に姿を消すこととなった。これにより、日本は広域的で統一された国内市場を形成する土台を得たのである。

なお、のちの江戸時代には江戸幕府によって東海道の箱根関所などに代表される新たな関所が設けられるが、これらは「入り鉄砲に出女」を取り締まるための軍事・治安維持目的のものであり、中世のように経済的な収奪(通行税の徴収)を目的としたものではなかった。信長の関所撤廃は、中世的な経済支配の終焉と、近世的な国家体制への移行を象徴する極めて重要な歴史的転換点であったと評価できる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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