刑部省 (ぎょうぶしょう)
1869年〜1871年
【概説】
明治新政府が二官六省制のもとで設置した、司法および裁判を司った中央官庁。律令制の官名を復活させる形で組織されたが、近代的な司法制度構築に向けた過渡期的な存在。のちに弾正台と統合され、司法省へと発展的に解消した。
明治初期の官制改革と刑部省の設置
明治新政府は、王政復古ののち目まぐるしい官制改革を繰り返した。1869(明治2)年7月、古代の律令制を模した「祭政一致」の理念に基づき、最高機関である神祇官・太政官の二官と、その下に実務を担う民部・大蔵・兵部・刑部・礼部・外務の六つの省を置く二官六省制を導入した。このとき、司法行政や裁判、刑罰の執行を担う機関として設置されたのが刑部省である。刑部省は旧律令制の官名を冠しながらも、欧米合衆国の司法省などを意識した近代的な司法権の集権化を目指して組織された。
弾正台との対立と司法省への発展
刑部省は、行政官(太政官)の支配から独立した司法の確立を模索した。しかし当時は、政府の監察・警察機能を担っていた弾正台との権限の重複や、職務の境界をめぐる対立が頻発し、国家の治安維持と裁判業務に支障をきたしていた。新政府が不平等条約の改正を実現するためには、司法権の独立と近代的な法秩序の確立が不可欠であり、過渡期的な二官六省制の見直しが必要となった。そのため、1871(明治4)年7月の廃藩置県と前後して行われた官制改革により、刑部省は弾正台と統合される形で廃止され、新たに司法省へと改組された。この司法省において、のちに初代司法卿となった江藤新平らが近代的な裁判制度や民法・刑法の編纂へと乗り出していくこととなる。