台湾民主国 (たいわんみんしゅこく)
【概説】
日清戦争後の下関条約によって決定した日本への台湾割譲に対し、割譲阻止を狙った現地の清朝官僚や有力者、住民らが1895年に樹立した東アジア初の共和国。清朝からの離脱と独立を宣言して列強の介入を誘おうとしたが、初代台湾総督の樺山資紀率いる日本軍の武力進圧により、わずか5ヶ月で崩壊した。
下関条約と「台湾民主国」成立の背景
1895年4月、日清戦争の講和条約である下関条約が締結され、清朝は日本に対して台湾および澎湖諸島の割譲を認めた。しかし、この決定に台湾現地の官民は猛反発した。清朝政府が領有権放棄を受け入れたのに対し、台湾巡撫であった唐景崧や現地の有力者(紳商)らは、割譲を阻止するための独自の生存戦略を模索することとなった。
当時、三国干渉によって日本が遼東半島を清朝に返還させられた直後であったため、台湾の指導者層は「独立国」の体裁を整えればフランスなどの欧州列強が介入し、日本の領有を阻止してくれるのではないかと期待した。こうして1895年5月25日、清朝への忠誠を前提としつつも、唐景崧を総統(大統領)とする「台湾民主国」の建国が宣言された。これはアジアにおける最初期の共和国の試みであったが、その実態は自立した近代国家を目指すものというよりは、日本への帰属を回避するための外交的手段という側面が強かった。
近衛師団の派遣と「乙未戦争」の展開
日本政府は台湾民主国の成立を認めず、初代台湾総督に任命された樺山資紀のもと、北白川宮能久親王が率いる陸軍の精鋭・近衛師団を派遣して武力による制圧へと乗り出した。これが台湾領有をめぐる最初の大規模な戦闘である乙未戦争(いつびせんそう)の始まりである。
日本軍が台湾北部の基隆に上陸すると、最新鋭の軍備を誇る日本軍の前に台湾民主国の正規軍(清朝の敗残兵など)は退却を重ねた。総統の唐景崧は早くも政権を放棄して中国大陸へと逃亡し、首都とされた台北は日本軍の進撃を前に混乱に陥った。しかし、近衛師団が台北を占領した後も、台湾南部では黒旗軍を率いる劉永福が台南を拠点に抵抗を継続し、現地の平地在来系住民(客家やホーロー人)も義勇兵を組織して、山岳地帯や農村部で頑強なゲリラ戦を展開して日本軍を苦しめた。
台湾民主国の崩壊とその歴史的意義
1895年10月、指導者の一人であった劉永福も大陸へと脱出し、日本軍が台南を占領したことによって台湾民主国は完全に崩壊した。建国宣言からわずか5ヶ月足らずの短命な政権であった。しかし、日本にとってこの台湾平定戦は、日清戦争の本戦を上回る死傷者(多くは伝染病による病死者)を出す過酷なものとなった。
台湾民主国による組織的抵抗と、それに続く台湾住民の武装抗日運動は、日本の台湾統治方針に決定的な影響を与えた。総督府は武力による徹底的な弾圧を進め、「匪徒刑罰令」を制定して抵抗勢力を厳しく処罰する一方、民政長官の後藤新平のもとで土地調査や近代インフラの整備を進め、力による抑圧と懐柔を組み合わせた植民地統治(総督専制政治)を確立していくこととなった。台湾民主国は、日本の帝国主義的拡大に対する台湾住民の最初の組織的抵抗として、その後の抗日民族運動の原点に位置づけられている。