皇室典範 (こうしつてんぱん)
【概説】
大日本帝国憲法と同日の1889年(明治22年)に制定された、皇位継承や皇室の制度についての根本原則。国家の最高法規である憲法と同等の効力を持ちながら、帝国議会の関与を一切受けない独自の法規範として位置づけられた。
「宮務法」としての独立と制定の背景
明治政府が近代国家としての法体系を整備するなかで、最大の懸案の一つが皇室に関する法規範の扱いであつた。憲法草案の起草にあたった伊藤博文や井上毅、ドイツ人顧問のヘルマン・ロエスレルらは、天皇の家法である皇室制度を一般の国家法(大日本帝国憲法)のなかに組み込むことを危惧した。皇室のあり方が帝国議会の政争の具となり、議会の立法権による干渉を受けることを防ぐためである。その結果、国家の統治機構を定める「国務法(大日本帝国憲法)」と、皇室の内部規律を定める「宮務法(皇室典範)」を分離独立させるという手法がとられた。
二元的な法体系と大日本帝国憲法との関係
旧皇室典範は、大日本帝国憲法と同格の最高法規として君臨した。大日本帝国憲法第74条において、皇室典範の改正には帝国議会の協賛(同意)を要しないことが明記され、天皇の裁定と皇族会議・枢密顧問の諮詢のみで改正できる「皇室自律の原則」が確立された。同時に、皇室典範によって憲法を変更することも、憲法によって皇室典範を変更することも禁じられた。これにより、日本の法体系は憲法と皇室典範という二つの柱によって構成される特殊な二元体制となったのである。
旧皇室典範の主な内容と歴史的影響
全62条からなる旧皇室典範は、皇位継承、践祚・即位、成年・摂政、皇族の範囲、皇室会議などを詳細に定めた。とくに歴史的に重要なのは、第1条で「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇則ニ従ヒ男系ノ男子之ヲ継承ス」と明記し、かつて存在した女性天皇や女系継承を法的に完全に排除した点である。また、天皇や皇太子の成年を18歳としたことや、正妻の子ではない庶子(非嫡出子)にも皇位継承権を認めていた点は、当時の社会や皇室の実情を反映したものであった。
日本国憲法の制定と新「皇室典範」への移行
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法の施行に伴い、旧皇室典範は廃止された。新憲法第2条において「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定されたためである。これにより、皇室典範は憲法と同格の絶対的な家法から、国会の統制下にある「一法律」へと劇的にその性質を変化させた。現在の皇室典範はこの時に制定されたものであるが、男系男子による皇位継承原則など、旧典範から引き継がれた要素も多く残されている。