臣民 (しんみん)
【概説】
大日本帝国憲法(明治憲法)下における、日本国民の公式な呼称。天皇に統治される者、あるいは天皇の家臣たる民という意味合いを強く持つ。1889年(明治22年)の憲法発布から、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行にともない「国民」へと改められるまで使用された。
「臣民」概念の導入と大日本帝国憲法
「臣民」という語は、東洋の伝統的な君臣関係に由来する「君主の臣下であり、支配される民」を意味する概念である。明治維新を経て近代国家の建設を進めた日本は、1889年(明治22年)に東アジア初の近代憲法である大日本帝国憲法(明治憲法)を制定した。同憲法においては、国家の主権者(統治権の総攬者)を「万世一系」の天皇とし(第1条・第4条)、その統治対象たる人々を「国民」ではなく「臣民」と定義した(第2章「臣民権利義務」)。
この呼称の採用は、西欧的な国民主権や市民社会の思想を排除し、天皇を頂点とする君主主権体制(天皇制)を法的に固定化するためであった。西欧の近代憲法が市民革命を経て「市民(シチズン)」や「人民(ピープル)」の主権を確立したのに対し、明治憲法下の日本においては、人々はまず「天皇の赤子(せきし)」であり、天皇に服従すべき臣下として位置づけられたのである。
「法律の留保」と臣民の権利・義務
明治憲法第2章は「臣民権利義務」と題され、信教の自由、言論・結社・集会の自由、所有権の不可侵などの権利が明記されていた。しかし、これらの権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」または「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ」という条件付きで認められたものであった。これを歴史学や憲法学において法律の留保と呼ぶ。
この留保条件により、帝国議会が制定する法律によって、臣民の権利や自由は容易に制限することが可能であった。大正デモクラシー期には一時的に政党政治や社会運動が活発化したが、昭和期に入ると治安維持法(1925年制定、のちに厳罰化)などの治安立法によって、思想や言論の自由は徹底的に弾圧された。また、臣民の義務として「納税」と並んで「兵役」が課され、とりわけ義務教育や軍隊を通じて、天皇に対する絶対服従と自己犠牲の精神が植え付けられていくこととなった。
敗戦と「臣民」から「国民」への転換
1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争における敗戦と連合国軍による占領によって、これまでの国家体制は根本から覆された。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は、天皇を「象徴」とし、主権が国民に存することを明確に宣言した(国民主権)。
これにより、支配・被支配の関係性を前提とした「臣民」という呼称は完全に廃止され、侵すことのできない基本的人権を保障された主体としての「国民」へと代わることになった。この呼称の転換は、日本社会が主権の所在を天皇から一般の人々へと移し、民主主義国家へと生まれ変わった歴史的断絶を象徴している。