難波大助 (なんばだいすけ)
【概説】
大正時代の無政府主義・共産主義に傾倒したテロリスト。1923年12月に摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃した「虎の門事件」の犯人。大逆罪に問われ、裁判を経て死刑に処された人物である。
思想的背景と「大正デモクラシー」
難波大助は1899(明治32)年、山口県の資産家で衆議院議員であった難波作之助の息子として生まれた。裕福な家庭環境に育ちながらも、成長とともに社会の貧富の差や階級矛盾に疑問を抱くようになる。特に中学卒業後、上京して進学するなかで、当時の大正デモクラシー期の社会運動や知識人の言説に強く影響を受けた。
難波は、幸徳秋水らが処刑された1910年の「大逆事件」の真相を知ることで国家権力への激しい怒りを抱き、次第に共産主義思想や無政府主義(アナキズム)に傾倒していった。さらに、1923(大正12)年9月に発生した関東大震災の混乱の中で、社会主義者や朝鮮人が虐殺された事件(甘粕事件など)を目の当たりにしたことで、現体制への暴力的な直接行動を決意するに至った。
虎の門事件の決行と政治的影響
1923年12月27日、難波は東京の虎の門外において、帝国議会開院式に向かう途中であった摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の乗った御召馬車を仕込杖の銃で狙撃した。これが世にいう虎の門事件である。銃弾は馬車の窓ガラスを貫通したものの、摂政宮自身は無事であり、難波はその場でただちに取り押さえられた。
この事件は当時の日本社会と政治に甚大な衝撃を与えた。現職の第2次山本権兵衛内閣は、皇室の警護を怠った責任を取る形で、事件直後に内閣総辞職へと追い込まれた。また、難波の父・作之助は即座に衆議院議員を辞職して自宅の門を閉ざし、断食を行うなどして社会的制裁を受けた。本事件は、国家中枢に対する直接的なテロ行為として、その後の国家による治安維持と右傾化への流れを加速させる一因となった。
「大逆罪」による裁判と処刑
逮捕された難波は、天皇家や皇族に対して危害を加えようとした罪として、刑法第73条の大逆罪に問われた。大審院における非公開の裁判において、難波は一切の反省を示さず、自らの行為を「革命行為」であると正当化し、皇室を否定する発言を繰り返した。
1924(大正13)年11月13日、大審院は難波に対して死刑判決を下した。大逆罪の判決から執行までは極めて迅速に進められ、判決のわずか2日後の11月15日、市ヶ谷刑務所において難波の死刑が執行された。彼の死は、国家による天皇の神聖不可侵性の徹底と、それに反する「危険思想」の徹底的な排除を象徴する出来事であった。