清浦奎吾内閣 (きようらけいごないかく)
【概説】
1924年(大正13年)、虎の門事件による第二次山本権兵衛内閣の総辞職を受けて成立した内閣。閣僚のほぼすべてを貴族院議員で固めた完全な「超然内閣」であったため、政党側から激しい反発を招いた。これが第二次護憲運動を引き起こす原因となり、結果として本格的な政党内閣時代を切り開く契機となった。
虎の門事件と清浦内閣の誕生
1923年(大正12年)12月、無政府主義者の難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃する虎の門事件が発生した。この重大な警備上の不祥事の引責により、当時の第二次山本権兵衛内閣は総辞職を余儀なくされた。元老・西園寺公望らは、次期首相として枢密院議長であった清浦奎吾を推奏した。
清浦は山県有朋の側近として司法省や貴族院で多大な影響力を持つ保守派の重鎮であった。関東大震災直後の混乱期や、虎の門事件による思想的動揺を収拾するためには、政党間の対立に左右されない「強力な官僚内閣」が必要であると判断され、組閣の大命が下ったのである。
時代錯誤の「特権的超然内閣」
1924年1月に発足した清浦内閣は、陸軍・海軍・外務の各大臣を除くすべての閣僚を、貴族院の最大会派である「研究会」や「茶話会」に所属する貴族院議員から登用した。衆議院に基盤を持つ政党からの入閣は皆無であり、文字通りの完全な超然内閣(非政党内閣)であった。
大正デモクラシーの進展により政党政治への要求が高まっていた当時の社会的風潮において、民意を反映しない特権階級である貴族院を中心に組織されたこの内閣は、時代に逆行する「特権階級の牙城」とみなされ、国民的な非難を浴びることとなった。
第二次護憲運動の勃発と政界再編
清浦内閣の成立に対し、政党陣営や言論界は激しく反発した。衆議院の主要政党である憲政会(加藤高明総裁)、立憲政友会(高橋是清総裁)、革新倶楽部(犬養毅総裁)は提携を結び、「普選断行・貴族院改革」をスローガンに掲げて倒閣運動を展開した。これが第二次護憲運動である。
一方、立憲政友会内では清浦内閣への対応を巡って激しい内紛が勃発した。床次竹二郎ら内閣支持派が脱党して政友本党を結成したことにより、政友会は衆議院第一党の座から転落した。しかし、残された護憲三派は強固なスクラムを組み、全国各地で激しい憲政擁護のキャンペーンを展開していった。
総選挙の敗北と「憲政の常道」の幕開け
清浦内閣は議会の解散で事態の打開を図ったが、1924年(大正13年)5月に実施された第15回衆議院議員総選挙において、護憲三派は合計284議席を獲得して大勝を収め、内閣を支持した政友本党は惨敗した。民意の圧倒的な支持が政党政治にあることが示された結果、清浦内閣は選挙直後の6月に総辞職を余儀なくされた。
清浦内閣の後継には、護憲三派を基盤とする加藤高明内閣(護憲三派内閣)が成立した。清浦内閣の崩壊は、長らく続いた藩閥・官僚勢力と政党勢力との対立において、政党側が最終的な勝利を収めたことを意味する。以後、1932年(昭和7年)の犬養毅内閣(五・一五事件)まで、衆議院の多数党の党首が首相を務める「憲政の常道」と呼ばれる本格的な政党内閣制の時代が続くこととなった。