清浦奎吾 (きようらけいご)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した官僚政治家、首相。貴族院の最大会派である研究会を背景に、閣僚の大部分を貴族院議員で固めた超然内閣を組織した人物である。この極端な特権階級偏重の組閣は政党側の激しい反発を招き、第二次護憲運動を誘発して政党内閣期(憲政の常道)への移行を決定づける契機となった。
山県閥の「官僚の総帥」としての台頭
清浦奎吾は肥後国(熊本県)の浄土真宗僧侶の家に生まれ、明治維新後に司法省に入り官僚としてのキャリアをスタートさせた。特に近代日本陸軍の祖であり、官僚勢力の巨大指導者であった山県有朋にその才能を見出され、山県閥の有力な腹心として頭角を現す。司法大臣や内務大臣などの要職を歴任し、官僚機構における実力者となった。
さらに清浦は、特権階級の牙城であった貴族院において、最大会派である研究会の実質的な指導者として君臨した。大正デモクラシーの進展に伴い政党政治の台頭が著しくなるなか、清浦は一貫して政党を排撃し、天皇の官僚が国政を担うべきだとする超然主義の立場を堅持した。1914年のシーメンス事件による第1次山本権兵衛内閣倒壊の際にも一度組閣の大命を受けたが、海軍側の入閣拒否(いわゆる鰻香内閣)によって挫折した経験を持つ。
清浦超然内閣の組織と第二次護憲運動
1923年(大正12年)末、摂政宮(後の昭和天皇)が狙撃された虎ノ門事件の責任を取って第2次山本内閣が総辞職すると、翌1924年1月、ついに清浦に再び組閣の大命が下った。清浦は陸相・海相・外相以外のすべての閣僚を貴族院議員、それも自らの足元である研究会などの特権階級で固めた極端な超然内閣を組織した。
この時代逆行とも言える組閣に対し、世論および衆議院の政党側は「特権内閣の打倒」「政党内閣の確立」を掲げて猛反発した。憲政会の加藤高明、立憲政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅の3総裁が結集し、いわゆる護憲三派を結成して第二次護憲運動を展開した。清浦は衆議院を解散して総選挙に打って出たが、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において護憲三派が圧倒的な過半数を獲得して圧勝した。この民意の審判を受け、清浦内閣はわずか5ヶ月余りで総辞職に追い込まれた。
清浦内閣の崩壊は、日本における超然主義政治の終焉を意味した。清浦の後に成立した加藤高明護憲三派連立内閣以降、1932年の五・一五事件に至るまで、衆議院の多数党が内閣を組織する「憲政の常道」が確立することとなり、清浦はその最後の防波堤として歴史に名を残すこととなった。