初期議会

第1回から日清戦争期までの、藩閥政府と民党が激しい政治対立を繰り広げた時期の帝国議会を総称して何というか?
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★★★

【参考リンク】
帝国議会(Wikipedia)

初期議会

1890年 – 1894年

【概説】
1890年(明治23年)の第1回から、1894年の日清戦争勃発に至る第6回までの帝国議会の総称。超然主義をとる薩長藩閥政府と、衆議院の多数を占める野党(民党)が、予算案や外交方針をめぐって激しく対立した期間を指す。

帝国議会の開設と「民党」対「藩閥政府」

1890年(明治23年)、大日本帝国憲法の施行に伴い、第1回衆議院議員総選挙が実施された。この選挙では、自由民権運動の流れをくむ立憲自由党や立憲改進党といった野党勢力、いわゆる民党が過半数の議席を獲得した。一方、政府は憲法制定前年の1889年に黒田清隆首相が「政府は政党の意向に左右されず、超然として公正の道をとる」という超然主義の声明を出しており、政府を支持する議員(吏党)とともに議会運営に臨んだ。こうして、初期議会は「超然主義を掲げる薩長藩閥政府」と「議会を通じた政治参加を求める民党」という明確な対立構図のもとで幕を開けることとなった。

「政費節減・民力休養」と軍拡の対立

民党は「政費節減・民力休養」(政府の支出を抑え、国民の税負担を減らすこと)をスローガンに掲げ、地租の軽減や行政整理を強く求めた。対する第1次山県有朋内閣は、主権線(国境)の防衛と利益線(朝鮮半島)の確保を主張し、軍事費の拡大を要求した。第1回議会では予算案をめぐって紛糾したが、政府が自由党土佐派の一部を切り崩すことで辛うじて予算が成立した。

続く第1次松方正義内閣下での第2回議会ではさらに激しい対立が生じ、首相は日本憲政史上初となる衆議院解散に踏み切った。翌1892年の第2回総選挙において、内務大臣の品川弥二郎は警察等を用いた大規模な選挙干渉を行い多数の死傷者を出したが、それでも民党側が過半数を維持し、政府の強権的な手法は内外から大きな批判を浴びることとなった。

対外硬派の台頭と条約改正問題

初期議会の後半(第4回〜第6回議会)では、第2次伊藤博文内閣の下で、予算だけでなく条約改正問題を中心とした外交政策が最大の争点となった。民党側は、条約改正交渉における政府の軟弱外交を非難し、外国人の内地雑居に反対する条約励行運動などを展開して、対外硬派と呼ばれる強力な野党連合を形成した。

これに対し、伊藤内閣は明治天皇から「和衷協同の詔」を引き出して建艦費などを認めさせるなど、天皇の権威を利用して事態の収拾を図った。しかし外交問題をめぐる対立は収まらず、政府は第5回・第6回議会と連続して衆議院の解散を断行するなど、政府と議会は一触即発の膠着状態に陥っていた。

日清戦争の勃発と初期議会の終焉

第6回議会解散後の1894年(明治27年)夏、日清戦争が勃発する。同年秋に広島で開催された第7回臨時議会では、国家の非常事態という認識から、これまで政府と激しく対立していた民党も一転して戦争に協力的な姿勢を見せた。その結果、巨額の臨時軍事費が全会一致であっさりと可決された。

この出来事をもって、予算や外交をめぐり藩閥政府と民党が全面対決を続けた「初期議会」の時代は終焉を迎えた。以後の議会政治は、対立一辺倒から脱却し、政府と政党が時に妥協し、時に提携を模索する新たな段階へと移行していくこととなり、日本の立憲政治が本格的に定着していく過程において重要な転換点となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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