第1回帝国議会(第一議会)
【概説】
1890年(明治23年)に開会された、大日本帝国憲法下における最初の帝国議会。衆議院の過半数を占める民党が「政費節減・民力休養」をスローガンに掲げて政府の予算案削減を要求したが、第1次山県有朋内閣が自由党の一部を切り崩して妥協を図り、予算を成立させた。
憲法発布と初の衆議院議員総選挙
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布に伴い、翌1890年7月に第1回衆議院議員総選挙が実施された。有権者は「直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子」に限られており、当時の総人口の約1.1%に過ぎない制限選挙であった。しかし結果は、立憲自由党や立憲改進党などの反政府系政党(民党)が定数300議席のうち171議席を獲得し、過半数を制することとなった。黒田清隆元首相が唱えた、政党の動向に左右されず政策を行うとする「超然主義」を継承した第1次山県有朋内閣は、厳しい議会運営を強いられる形で同年11月に議会開会を迎えた。
「政費節減・民力休養」と軍拡予算の対立
第1回帝国議会において最大の争点となったのは、政府が提出した予算案であった。首相の山県有朋は施政方針演説において、国家の独立を守る国境を「主権線」、それに隣接し国の安全に関わる地域(主に朝鮮半島)を「利益線」と定義し、利益線の防衛のために大幅な軍事費増額を盛り込んだ予算案を提出した。これに対し、民党側は「政費節減・民力休養」(政府の無駄な支出を減らし、重い地租を軽減して国民の生活を回復させること)をスローガンに掲げて真っ向から対立した。衆議院の予算委員会は、政府提出予算案のうち約1割にあたる約880万円の削減を査定し、政府との激しい攻防が展開された。
憲法第67条を巡る攻防と民党の切り崩し
大幅な予算削減案に対し、政府は大日本帝国憲法第67条を盾に反発した。この条文には「天皇の大権に基づく既定の歳出」などの削減には政府の同意が必要であると定められており、政府はこれを根拠に議会による一方的な削減を無効化しようとした。しかし、予算が不成立となれば前年度の予算がそのまま執行される規定(憲法第71条)があったため、新規の軍拡を進めたい政府にとっても妥協が不可欠であった。そこで政府(農商務相の陸奥宗光ら)は、民党内の亀裂を利用して裏面工作を行い、自由党土佐派の一部(自由倶楽部)を切り崩すことに成功した。最終的に、政府側も当初の削減額から一部譲歩し、約650万円の削減を受け入れることで土佐派の賛成を得て予算案は成立した。
第一議会の歴史的意義
第1回帝国議会は、激しい対立と政治工作を伴いながらも、議会を解散や停会による破綻へと追い込むことなく予算を成立させた。この事実は、いかに専制的な藩閥政府であっても、衆議院の予算審議権を無視しては円滑な国家運営ができないということを明確に示した。また、東アジア初の本格的な近代立憲体制が機能し始めたことを国内外に証明したことは、日本の国際的地位向上につながり、後の不平等条約改正交渉においても大きなプラスの影響を与える歴史的な一歩となった。