ラグーザ
【概説】
明治初期に来日したイタリアの彫刻家。お雇い外国人として工部美術学校で教鞭を執り、日本で最初となる本格的な西洋彫刻教育を行った。西欧の写実的な彫刻技術を伝え、日本近代彫刻の発展に決定的な基礎を築いた人物である。
お雇い外国人としての来日と工部美術学校
明治政府は近代化政策(殖産興業)の一環として、西欧の科学技術のみならず、近代的な美術・建築技術の導入を急いだ。そのために工部省が1876年(明治9年)に設立したのが工部美術学校である。ラグーザはこの学校の彫刻学科教師として、画家のフォンタネージや建築家のコサッティらとともにイタリアから招かれた。これが、日本における官立の西洋美術教育機関の始まりであった。
西洋彫刻技術の移植と後進の育成
ラグーザが日本に伝える以前の日本の「彫刻」は、仏像や木彫などの伝統的な彫刻技術が主体であった。ラグーザは、西洋の解剖学に基づく正確な骨格理解や写実主義の思想を持ち込み、粘土による塑像、石膏による型取り、さらにはブロンズ鋳造やテラコッタといった新しい技法を初めて系統的に講義した。彼の指導のもとからは、靖国神社の大村益次郎銅像を手がけたことで知られる大熊氏広など、日本近代彫刻の先駆者となる優れた門下生が輩出された。
美術思潮の変遷とラグーザの帰国
1880年代に入ると、明治初期の急進的な欧化政策に対する反動が生じ始める。アーネスト・フェノロサや岡倉天心らを中心とする日本美術復興運動(国粋主義的思潮)が台頭し、日本の伝統美術を重視する風潮が強まった。この影響と政府の財政難により、西洋美術を教える工部美術学校は1883年に廃校に追い込まれた。ラグーザはそれに先立つ1882年に帰国を余儀なくされた。彼が帰国したのち、日本の彫刻界における西洋技法の本格的な再導入は、1890年代後半に東京美術学校に西欧風の彫刻科が設置されるまで一時的に停滞することとなる。しかし、彼が蒔いた近代彫刻の種は、教え子たちを通じて大正・昭和の美術界へと受け継がれていった。