大隈重信
【概説】
肥前国佐賀藩出身の政治家、教育者。明治政府において大蔵大輔や参議などの要職を歴任し、近代化政策を推進した。しかし、イギリス流の早期国会開設を主張して伊藤博文らと対立し、明治十四年の政変で下野を余儀なくされた。その後は立憲改進党の結成や早稲田大学の創設、日本初の政党内閣(隈板内閣)の組閣など、近代日本の政党政治と教育に多大な貢献を果たした。
新政府での台頭と近代化の推進
幕末の肥前国佐賀藩に生まれた大隈重信は、蘭学や英学を学び、長崎でフルベッキに師事するなど早くから西洋の知識を吸収した。明治新政府に出仕すると、語学力と実務能力を買われて外交や財政の分野で頭角を現した。とりわけ大蔵省の実質的なトップ(大蔵大輔)として、地租改正の準備作業、新貨条例の制定、太陽暦の採用、鉄道敷設など、明治初期の急進的な近代化政策(殖産興業)を強力に推進した。
明治十四年の政変による下野
大久保利通の暗殺後、大隈は参議として政府の中枢に位置したが、次第に長州藩出身の伊藤博文らと対立を深めていくことになる。自由民権運動が全国的な高まりを見せる中、政府内で国会開設時期が議論されると、伊藤らが君主権の強いプロイセン(ドイツ)流の憲法と漸進的な国会開設を志向したのに対し、大隈はイギリス流の議院内閣制と早期の国会開設を主張する急進的な意見書を提出した。
折りしも、北海道開拓使長官の黒田清隆による開拓使官有物払下げ事件が世間の猛反発を招いており、政府内ではこれを大隈が世間にリークしたのではないかと疑われた。これを契機として、伊藤らは1881(明治14)年に大隈とその一派を政府から追放した。これが明治十四年の政変である。この政変により、薩長藩閥を中心とする政府の体制が固まるとともに、政府は「国会開設の勅諭」を出して10年後の国会開設を約束することとなった。
政党政治の模索と早稲田大学の創設
下野した大隈は、1882(明治15)年に都市のブルジョワジーや知識層を支持基盤とする立憲改進党を結成し、板垣退助の自由党とともに自由民権運動の指導的役割を担った。また同年、学問の独立を掲げて東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設し、近代国家を担う有為な人材の育成に尽力した。政治と教育の両面から、政府の藩閥専制に対抗する姿勢を示したことは特筆に値する。
条約改正交渉と隈板内閣の組閣
大隈の類まれなる外交手腕は政府からも無視できず、1888年には黒田清隆内閣の外務大臣として入閣し、幕末以来の悲願であった不平等条約の改正交渉に当たった。しかし、外国人判事を大審院(最高裁判所)に任用するという妥協案が激しい反対運動を招き、国家主義者の来島恒喜に爆弾を投げつけられ右脚を失う重傷を負い、辞任を余儀なくされた。
その後、1898(明治31)年には、長年の政敵であった板垣退助と提携して憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任した。これが日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣(通称・隈板内閣)である。この内閣は旧自由党系と旧改進党系の内部対立によりわずか数ヶ月で瓦解したが、日本の政党政治の発展において極めて重要な歴史的意義を持っている。
第2次大隈内閣と晩年
1914(大正3)年、第一次護憲運動の後の政治的混乱の中で、大隈は76歳にして再び総理大臣に指名され、第2次大隈内閣を組閣した。この内閣の下で日本は第一次世界大戦に参戦し、さらに中国に対して対華21カ条の要求を突きつけるなど、積極的な大陸進出政策を展開した。
政界引退後は「早稲田の老侯」として広く国民に親しまれ、言論活動や文化事業に貢献した。1922年に84歳で死去した際には、日比谷公園で国民葬が営まれ、数十万人の群衆がその死を悼んだ。大隈重信は、薩長藩閥外の出身でありながら、その卓越した先見性とバイタリティによって明治・大正期の政治、外交、教育に巨大な足跡を残したのである。