大審院 (だいしんいん)
【概説】
明治初期から日本国憲法施行まで存在した、我が国における民事・刑事訴訟の最高司法機関。1875(明治8)年に出された「漸次立憲政体樹立の詔」に基づき、従来の司法省裁判所に代わって設置された。現在の最高裁判所の前身にあたり、近代日本の司法権独立の確立において重要な役割を果たした。
設置の経緯と立憲政体への歩み
明治政府は、不平等条約の改正に向けた近代国家としての法制度整備を急いでいた。1875(明治8)年、大久保利通・木戸孝允・板垣退助らによる大阪会議での合意を受け、明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔」が下された。これにより、立法機関としての元老院、地方の民意を反映させる地方官会議とともに、最高司法機関として大審院が設置された。
大審院の設置は、それまで司法省という行政機関の管轄下にあった裁判権を一定程度独立させ、三権分立の基礎を築く試みであった。当初はフランスの破毀院(はきいん)をモデルとし、のちにドイツの帝国裁判所(帝国最高裁判所)の影響を受けながら、日本の司法制度の頂点として機能していくこととなった。
大津事件と司法権の独立
大審院の歴史において、最も著名な出来事が1891(明治24)年に発生した大津事件である。来日中だったロシア東宮(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備兵の津田三蔵に切りつけられて負傷した。ロシアとの軍事的衝突を恐れた松方正義内閣は、犯人を大逆罪(皇室に対する罪)によって死刑に処すよう大審院に圧力をかけた。
しかし、当時の大審院長であった児島惟謙(こじまこれかた)は、「法治国家として法を厳格に適用すべきであり、政治的配慮によって法を歪めてはならない」と主張した。結果として大審院は、通常の殺人未遂罪を適用して津田を無期徒刑(無期懲役)とした。この判決は、政府の介入を排して司法権の独立を守り抜いた先例として、日本の憲政史上に深く刻まれることとなった。
帝国憲法下の限界と戦後の廃止
大審院は最高司法機関であったが、大日本帝国憲法(明治憲法)下においてはいくつかの限界が存在した。まず、裁判所の実務や人事などの司法行政権は、行政機関である司法省(司法大臣)が握っており、完全な三権分立とは言えなかった。また、行政官庁による違法処分を争う訴訟は、大審院ではなく特別裁判所である行政裁判所の管轄とされ、一般国民が国の不当な決定を司法で覆すことは極めて困難であった。
第二次世界大戦後の1947(昭和22)年、日本国憲法の制定に伴い、裁判所法が施行された。これにより、司法省からの独立と違憲審査権を付与された最高裁判所が新たに発足し、大審院はその歴史に幕を閉じた。