明治天皇
【概説】
第122代天皇。幕末の動乱期に即位し、王政復古の大号令を経て新政府の最高権力者となった。五箇条の誓文を発布して近代国家の基本方針を示し、大日本帝国憲法下では国家元首および大元帥として君臨して、日本の近代化と国民統合の中心的な役割を担った。
激動の幕末における即位と新政府の樹立
1867(慶応3)年、父である孝明天皇の崩御に伴い、満14歳(数え16歳)で践祚した。同年に徳川慶喜による大政奉還が行われ、直後に発せられた王政復古の大号令によって江戸幕府は事実上滅亡し、天皇を中心とする新政府が樹立された。翌1868年からの戊辰戦争のさなか、天皇は公卿や諸侯を率いて神々に誓う形式で五箇条の誓文を発布し、開国和親や公議世論の尊重といった新政府の基本方針を内外に示した。さらに、天皇一代につき元号を一つとする一世一元の制を定めて元号を「明治」と改め、江戸を東京と改称して事実上の首都移転(東京奠都)を行うなど、新しい時代の幕開けを自ら主導する立場となった。
近代国家の君主像の形成と「巡幸」
明治新政府が直面した最大の課題は、バラバラであった列島の人々を「日本国民」として統合し、近代的な国民国家を創出することであった。旧来の天皇は御所の奥深くに隠れた神秘的な存在であったが、明治新政府は西洋の君主をモデルとした「目に見える天皇」への転換を図った。天皇自らが断髪して洋装や軍服を身にまとい、近代化・西洋化を率先垂範するシンボルとなったのである。とりわけ重要であったのが、全国各地を訪問する六大巡幸(明治天皇の巡幸)である。天皇が直接地方に赴き、民衆に対して威光を示すことで、辺境に至るまで国家への帰属意識と天皇への畏敬の念を植え付け、中央集権体制の精神的な基盤を固めた。
大日本帝国憲法の制定と立憲君主制の確立
自由民権運動の高まりや、欧米列強と対等な条約を結ぶための近代法典整備の必要性から、1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布された。この憲法において天皇は「神聖にして侵すへからす」国家元首(主権者)と規定された。帝国議会の協賛を必要とする一方で、軍隊の統帥権や条約締結権、緊急勅令の発布など、議会の統制を受けない強大な天皇大権を保持した。外見的な立憲君主制を取り入れつつも、実質的には絶対君主的な権限を持つという二面性は、以後の日本の政治体制を決定づけた。また、翌1890年には教育勅語を下賜し、忠君愛国を核とする国民道徳の規範を示したことで、政治面だけでなく精神的・思想的な面でも国民統合の絶対的な支柱となった。
日清・日露戦争と「大元帥」としての役割
憲法下において陸海軍の最高指揮官である大元帥と位置づけられた天皇は、対外戦争において軍事指導の頂点に立った。1894年に勃発した日清戦争では、広島に大本営が移されると天皇自身もそこへ移り、長期間にわたり過酷な環境下で戦争指導にあたった。続く日露戦争においても最高統帥権者として軍部を束ねた。これらの戦争における勝利は、日本の国際的地位を飛躍的に向上させて列強の仲間入りを果たす原動力となったと同時に、国家の威信と一体化した天皇に対する国民の熱狂的な敬慕を決定的なものとした。
崩御と「明治」という時代の終焉
1912(明治45)年7月、持病の悪化により崩御。その死は日本国民に甚大な衝撃を与えた。乃木希典大将の殉死や、夏目漱石の小説『こころ』に描かれた知識人の反応に象徴されるように、天皇の崩御は単なる一君主の死にとどまらず、激動と飛躍に満ちた「明治」というひとつの時代の終焉として重く受け止められた。封建的な幕藩体制から近代的な国民国家への移行を見事に体現し、大日本帝国の栄華の象徴となった明治天皇の存在は、死後も神宮(明治神宮)への祭祀などを通じて、戦前日本の国家神道体制において絶対的な不可侵性をもつこととなった。