岸信介

高校日本史的重要度
★★★

【参考リンク】
岸信介(Wikipedia)

岸信介 (きしのぶすけ)

1896年〜1987年

【概説】
昭和時代の官僚・政治家であり、第56・57代内閣総理大臣。戦前は商工省の「革新官僚」として満州国の経済統制を主導し、東條英機内閣の商工大臣として対米開戦に署名してA級戦犯容疑者となった。戦後に政界へ復帰して自由民主党の結党(保守合同)を主導し、1960年に日米安全保障条約の改定(新安保)を強行採決。これが空前の大衆運動である安保闘争を招き、新条約の成立と引き換えに退陣した、「昭和の妖怪」と称される戦後日本政治史の巨頭である。

「革新官僚」としての台頭と満州国経営

岸信介は東京帝国大学を卒業後、農商務省(のちの商工省)に入省した。1930年代、世界恐慌を背景に自由主義経済が行き詰まる中、国家が経済を統制して国力を増強すべきだと主張する革新官僚(かくしんかんりょう)の代表格として頭角を現した。

1936年、岸は関東軍の招きに応じて建国間もない満州国に渡り、産業部次長などに就任した。ここで彼は、軍部や新興財閥(日産など)と結託して「産業開発五カ年計画」を推し進め、満州国の統制経済体制を構築した。この満州での強力な国家主導型の経済運営の手法と、関東軍参謀長であった東條英機らとの太い人脈が、その後の彼の政治的基盤を形成していくこととなる。

東條内閣での入閣と「A級戦犯容疑」

1941年(昭和16年)、東條英機内閣が成立すると、岸は商工大臣として入閣し、同年12月の対米英開戦の宣戦詔書に署名した。戦時中は軍需省の次官として戦時経済の遂行に尽力したが、戦局が悪化した1944年にはサイパン島陥落を機に東條首相と激しく対立し、内閣倒閣の引き金の一つを引いた。

敗戦後、開戦時の閣僚であった岸はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によってA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監された。しかし、冷戦の激化に伴いGHQが日本の反共・親米化へと方針を転換(逆コース)したことで、東條らが処刑された翌日(1948年12月)に不起訴となり釈放された。この「死の淵からの生還」が、彼に「昭和の妖怪」という異名を定着させる一因となった。

政界復帰と「保守合同」の主導

公職追放が解除されると、岸は1953年の総選挙で政界に復帰した。彼は「自主憲法の制定」と「日米の対等な関係構築」を掲げ、鳩山一郎らとともに日本民主党を結成した。

折しも冷戦下において、国内の社会党が左右統一を果たすと、これに対抗するために保守陣営の大同団結が急務となった。岸は日本民主党の幹事長として自由党との合流工作を主導し、1955年(昭和30年)に自由民主党を結党させた。これにより、保守政党が政権を独占し、革新政党(社会党)が対立する55年体制(保守合同)が成立したのである。岸は自民党の初代幹事長となり、1957年には内閣総理大臣に就任した。

日米安保改定と「安保闘争」

首相となった岸の最大の政治目標は、1951年に結ばれた旧日米安全保障条約の改定であった。旧条約は、米軍の日本駐留を認める一方でアメリカの日本防衛義務が明記されておらず、内乱鎮圧条項もあるなど日本にとって極めて不平等な内容であった。岸はこれを、日米が対等なパートナーとして共同防衛を行う内容(新安保条約)へ改定するための交渉をアメリカとまとめた。

しかし、冷戦の最前線に日本が巻き込まれることを恐れる革新政党や労働組合、学生運動(全学連)などは猛烈な反対運動を展開した。1960年5月19日、岸内閣が警官隊を国会内に導入して新安保条約を強行採決すると、国民の怒りは「民主主義の危機」として爆発した。連日数十万人規模のデモ隊が国会を取り囲む空前の大衆運動、いわゆる安保闘争(あんぽとうそう)へと発展し、アイゼンハワー米大統領の訪日も取りやめとなった。

条約成立と退陣、その後の歴史的評価

1960年6月19日、デモ隊が国会を包囲する異様な熱気の中、新安保条約は参議院の議決がないまま自然成立した。岸はその責任をとって混乱を収拾するために退陣を表明し、直後に暴漢に襲撃されて重傷を負いながら首相の座を退いた。

当時、国民的な激しい非難を浴びた岸であったが、彼が政治生命を賭して成立させた新安保条約は、その後の東西冷戦期から現代に至るまで、日本の安全保障政策と日米同盟の確固たる基盤となった。また、アメリカの「核の傘」の下で防衛費を抑え、経済成長に邁進するというその後の日本の繁栄路線の前提条件を作り上げたとも言える。強権的な手法で国民を二分した批判と、国家の根幹を定めた戦略的先見性という、評価が大きく二極化する戦後政治の最重要人物の一人である。

最終更新:
2026年9月17日 @ 21:48

日本史一問一答(ランダム)

Q. フェートン号事件やイギリス捕鯨船の接近を背景に、1825年に幕府が出した、接近する外国船を無差別に砲撃して追い払う法令は何か?
Q. 1927年の東方会議において決定された、満蒙における日本の権益を死守し、中国の動乱が波及すれば武力介入するという外交の方針は何か?
Q. 1877年、西南戦争のさなかに土佐の立志社が政府の失政を批判し、国会開設などを求めて提出した建白書は何か?