軍部
【概説】
戦前の日本において、国家の軍事組織であった陸軍および海軍の総称。特に昭和初期以降、「統帥権の独立」を盾にして政治への介入を強め、五・一五事件や二・二六事件などの武力行使を経て政党政治を崩壊させ、国家の全権を掌握して戦争を主導した政治的勢力を指す。
大日本帝国憲法下の「軍部」の特質
「軍部」とは本来、国家の防衛を担う軍隊組織を指す一般的な呼称であるが、近代日本の歴史においては、単なる実力組織の枠を超えた強力な政治的実体としての意味合いを持つ。その根源は、大日本帝国憲法における軍の特権的な地位にあった。同憲法第11条において、天皇は軍の最高指揮権である「統帥権」を持つと規定されており、これは内閣や議会の統制を受けない統帥権の独立として解釈された。
さらに、軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)は内閣を通さずに直接天皇に意見を上奏できる帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を有しており、軍部は国務(一般政治)から独立した独自の領域を築いた。また、1900年(明治33年)の第2次山県有朋内閣の時に制度化された軍部大臣現役武官制により、陸海軍大臣は現役の大将・中将に限定された。これにより、軍部が大臣候補を推挙しなければ内閣は組閣できず、逆に意に沿わない内閣に対しては大臣を辞任させて内閣を総辞職に追い込むことができるという、強力な政治的拒否権を握ることとなった。
昭和初期における政治介入の本格化
大正デモクラシーの時期には政党政治が発達し、軍縮の気運もあって軍部の影響力は相対的に低下していた。しかし、昭和初期に昭和恐慌による深刻な経済不況や農村の疲弊といった社会不安が広がると、軍部内では現状打破を求める急進的な動きが活発化した。
軍部が公然と政治に牙を剥く大きな契機となったのが、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の締結である。海軍軍令部や野党の立憲政友会は、政府が軍令部の反対を押し切って兵力量を決定したことは「統帥権の独立」を侵すものであるとして、浜口雄幸内閣を激しく攻撃した(統帥権干渉問題)。翌1931年(昭和6年)には、日本の出先機関である関東軍が独断で満州事変を引き起こした。政府の不拡大方針を無視して軍事行動が既成事実化され、若槻礼次郎内閣がそれを追認せざるを得なかったことは、軍部の暴走を文民政府が統制できないことを国内外に露呈する結果となった。以後、軍部は国家改造や対外強硬策を掲げる右翼勢力と結びつき、政党政治に対する国民の不満を吸収しながら、その影響力を急激に拡大していった。
クーデター事件と政党政治の崩壊
軍部内の急進派は、テロリズムやクーデターによって腐敗した政党政治を打倒し、天皇親政のもとで直接的な国家改造を断行しようと試みるようになった。1932年(昭和7年)の五・一五事件では、海軍の青年将校らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を暗殺した。この事件により、8年余り続いた「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代は終焉を迎え、以後は軍部や官僚を中心とする挙国一致内閣が続くこととなった。
さらに、1936年(昭和11年)には陸軍の皇道派青年将校らが部隊を率いて首都の中枢を占拠し、政府高官を殺傷する二・二六事件を引き起こした。この反乱自体は昭和天皇の怒りに触れて鎮圧されたものの、これを機に陸軍内の統制派が主導権を握り、「軍部の意向に反する内閣は成立し得ない」という空気が決定づけられた。直後に成立した広田弘毅内閣のもとで軍部大臣現役武官制が復活したことで、軍部は政府に対して絶対的な優位性を確立したのである。
軍部独裁と国家総動員体制の構築
二・二六事件以降、軍部は政治・経済・教育・思想など、国民生活のあらゆる面に対する統制を強めていった。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、戦線が泥沼化すると、翌1938年には国家総動員法が制定された。これにより、議会の承認なしに人的・物的資源を政府(実質的には軍部)の裁量で統制・動員する絶大な権限が与えられた。
1940年(昭和15年)には新体制運動が進められ、大政翼賛会が結成されると、既存の政党はすべて自発的解散に追い込まれ、議会制民主主義は完全に形骸化した。翌1941年(昭和16年)には、現役の陸軍大将である東条英機が首相に就任し、内閣総理大臣・陸軍大臣・内務大臣を兼任する強固な軍部独裁体制のもとで、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入していった。
このように、「軍部」は本来の国防という役割を逸脱し、制度的欠陥を突いて一国の命運を左右する巨大な政治権力へと変貌を遂げた。その暴走を止める機能を持たなかった戦前の政治システムは、最終的に国家を破滅的な敗戦へと導く最大の要因となったのである。