鳩山一郎
【概説】
大正期から昭和期にかけて活躍した政党政治家。戦前は立憲政友会に属して文相などを歴任し、戦後は日本自由党の初代総裁となるもGHQにより公職追放処分を受ける。政界復帰後に内閣総理大臣に就任して保守合同(自由民主党の結成)を実現し、日ソ共同宣言による国交回復と日本の国連加盟を成し遂げた。
戦前の政治活動と滝川事件
東京帝国大学法科大学を卒業後、弁護士を経て政界入りし、大正期より立憲政友会の有力政治家として頭角を現した。犬養毅内閣で内閣書記官長を務めたのち、1932年に成立した斎藤実内閣では文部大臣に就任した。鳩山の戦前の政治行動の中で特筆されるのは、野党時代にロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って政府を「統帥権干犯」であると激しく追及したことと、文相時代の1933年に起きた滝川事件である。滝川事件において鳩山は、自由主義的な刑法学説を唱えていた京都帝国大学の滝川幸辰教授の休職処分を強行し、大学の自治と学問の自由を著しく弾圧した。このように、戦前の鳩山は国家体制を擁護する強硬派としての側面を強く持っていた。
日本自由党の結成と公職追放
第二次世界大戦での敗戦直後の1945年11月、鳩山は戦前の旧立憲政友会系の政治家を糾合し、いち早く日本自由党を結成して初代総裁に就任した。翌1946年4月の戦後初の総選挙で日本自由党は第一党となり、鳩山の内閣総理大臣就任は確実とみられていた。しかし、組閣の直前となる5月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は突如として鳩山に対する公職追放の指令を下した。これは、戦前の統帥権干犯問題での政府攻撃や、滝川事件での思想弾圧などが軍国主義・超国家主義に協力したものとみなされたためであった。これにより鳩山は、自らの側近であった吉田茂に党の後継を託し、表舞台から姿を消すこととなった。
政界復帰と保守合同(55年体制の成立)
1951年に公職追放が解除されると、鳩山は政界への復帰を果たした。しかし、長期政権を築いていた吉田茂は総裁の座を返還せず、両者の間で激しい派閥抗争(いわゆる「吉田・鳩山戦争」)が繰り広げられた。鳩山は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し、1954年末に吉田内閣を退陣に追い込み、ついに第1次鳩山一郎内閣を組閣した。ワンマンと呼ばれた吉田に対して、庶民的で明るい人柄の鳩山は国民から熱狂的な支持を集め、「鳩山ブーム」を巻き起こした。
当時の国内政治における最大の課題は、左派と右派に分裂していた日本社会党の統一運動に対抗することであった。社会党が1955年10月に統一を果たすと、財界の強い要望もあり、鳩山は翌11月に日本民主党と自由党を合同させ、新たに自由民主党を結成した。この歴史的な保守合同により、巨大な保守政党(自民党)と革新政党(社会党)が対峙する「55年体制」が成立し、以後の日本政治の基本構造が決定づけられた。
日ソ共同宣言と国際連合加盟
鳩山内閣の外交面での最大の目標は、対米協調に偏重していた吉田路線の修正と、独自の自主外交によるソ連との国交回復であった。鳩山は病身を押して自らモスクワへ赴き、1956年10月に日ソ共同宣言に調印した。北方領土問題の解決は先送りされたものの、これにより両国間の戦争状態は終結し、外交関係が回復した。
ソ連との関係が正常化したことで、これまで日本の国際連合加盟に拒否権を発動していたソ連の賛成が得られるようになり、同年12月、日本は悲願であった国際連合加盟を果たした。これにより日本は国際社会への完全な復帰を成し遂げ、鳩山はこの歴史的偉業を花道として内閣総辞職を行った。