昭和時代
【概説】
1926年(大正15年/昭和元年)の昭和天皇即位から、1989年(昭和64年)の崩御に至るまでの64年間を指す日本の時代区分。金融恐慌や軍部の台頭からアジア・太平洋戦争へと突き進み敗戦を迎えた戦前・戦中と、連合国軍の占領下での民主化を経て、高度経済成長を遂げ経済大国へと変貌した戦後に大きく二分される。日本の歴史上、最も劇的な価値観の転換と社会構造の変化を経験した激動の時代である。
政党内閣の崩壊と軍部の台頭
1926年末に「昭和」と改元されて間もなく、日本は相次ぐ経済的苦境に見舞われた。1927年の昭和金融恐慌に加え、1929年の世界恐慌の余波を受けた昭和恐慌により、農村部では娘の身売りが続出するなど深刻な社会不安が蔓延した。こうした状況下、当時の政党内閣(憲政の常道)は有効な対策を打ち出せず、国民の間に政党政治への不信感が急速に高まっていった。
この閉塞感を対外膨張によって打破しようと目論んだのが軍部であった。1931年、関東軍の謀略による満州事変を契機に軍部は政治的発言権を強め、翌1932年の五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されたことで、大正デモクラシー期から続いた政党内閣時代は終焉を迎えた。さらに1936年には急進派の青年将校によるクーデター未遂である二・二六事件が発生し、これを鎮圧した軍部中枢が政治を完全に主導するファシズム体制へと傾斜していくこととなった。
日中戦争と国家総動員体制
1937年、北京郊外での盧溝橋事件を皮切りに日中戦争が勃発した。当初、日本側は短期決戦を想定していたが、中国側の抗日統一戦線による激しい抵抗に遭い、戦局は泥沼化していった。これを受けて近衛文麿内閣は1938年に国家総動員法を制定し、議会の承認なしに人的・物的資源を戦争のために統制できる権限を政府に付与した。
1940年には、すべての政党や大半の社会団体が自発的に解散して大政翼賛会に合流し、一国一党の強力な指導体制が構築された。言論や思想の弾圧は激化し、国民生活は配給制や隣組を通じた相互監視のもと、完全に戦争完遂のために従属させられる「戦時体制」が完成をみた。
アジア・太平洋戦争と破局
日中戦争の打開策として資源を求めた日本軍の南部仏印進駐に対し、アメリカは石油の対日禁輸(ABCD包囲陣)という強硬措置をとった。日米交渉が暗礁に乗り上げる中、東條英機内閣は開戦を決断し、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃とマレー半島上陸によってアジア・太平洋戦争に突入した。
開戦当初こそ日本軍は東南アジア各地を席巻したが、1942年6月のミッドウェー海戦での大敗を転機として戦局は悪化の一途を辿った。サイパン島陥落後は本土への本格的な空襲が始まり、1945年春には沖縄戦で甚大な民間人被害を出した。そして同年8月、広島と長崎への原子爆弾投下、さらにソ連の対日参戦という破滅的状況を迎え、ついに8月14日にポツダム宣言を受諾し、翌15日の玉音放送によって敗戦が国民に知らされた。約310万人の日本人の命と、アジア全域で数千万の命が失われた未曾有の惨禍であった。
GHQの占領改革と主権回復
敗戦後、日本は主権を喪失し、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の間接統治下に入った。GHQは日本の非軍事化と民主化を徹底するため、財閥解体、農地改革、労働の民主化などの矢継ぎ早な改革(戦後改革)を実行した。その集大成が1946年に公布された日本国憲法であり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(戦争放棄)を基本原則とする新たな国家の骨格が形成された。
しかし、東西冷戦が激化すると、アメリカの対日政策は「日本の非軍事化」から「反共の防波堤としての経済自立」へと転換した(逆コース)。1950年に勃発した朝鮮戦争による特需(朝鮮特需)は、疲弊した日本経済に息を吹き込ませる起爆剤となった。1951年、吉田茂内閣のもとでサンフランシスコ平和条約を調印して翌年に主権を回復するとともに、日米安全保障条約を結び、西側陣営の一員としての国際社会復帰を果たした。
高度経済成長と「経済大国」への道
1955年、保守合同による自由民主党の結成と日本社会党の統一により、長期的な保守政権とそれを牽制する革新野党という「55年体制」が成立した。政治的安定を背景に、日本経済は1950年代後半から年平均10%近い実質経済成長率を記録する高度経済成長へと突入した。1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した通り、人々の生活様式は三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の普及によって激変した。
池田勇人内閣の「所得倍増計画」に象徴される重化学工業化の進展により、日本は急速に工業国として発展。1964年の東京オリンピック開催や東海道新幹線の開通、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)開催は、日本の国力回復を世界に印象付けた。1968年には国民総生産(GNP)で西ドイツを抜き、資本主義国第2位の経済大国となった。一方で、急激な工業化は水俣病などに代表される深刻な公害問題や、農村の過疎化と都市の過密化といった新たな社会問題も生み出した。
安定成長からバブル経済、そして昭和の終焉へ
1973年の第1次オイルショックによって狂乱物価が引き起こされ、日本の高度経済成長は終焉を迎えた。以降、日本は省エネルギー化や産業のハイテク化を進め、「安定成長期」へと移行した。自動車やエレクトロニクスなどの輸出産業が強力な国際競争力を持ち、1980年代にはアメリカとの間で激しい日米貿易摩擦が引き起こされるほどの影響力を誇った。
1985年のプラザ合意による急激な円高不況を克服するため、政府は低金利政策などの内需拡大策をとったが、これが投機資金の増大を招き、1980年代後半には株価や地価が異常な高騰を見せるバブル経済が発生した。日本中が未曾有の好景気に沸き立つ中、1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い元号が「平成」へと改められた。「昭和」は、国が滅亡の淵に立たされた前半期と、そこから奇跡的な復興を遂げ世界有数の経済力を手にした後半期という、極めて明暗の分かれた激動の時代として幕を閉じた。