英仏協商
【概説】
1904年(明治37年)、イギリスとフランスの間で結ばれた、アフリカ等での植民地対立を解消し、台頭するドイツに対抗するための協定。のちの三国協商形成の契機となり、日本の日露戦争や第一次世界大戦における外交・軍事戦略にも多大な影響を与えた。
締結の背景と「光栄ある孤立」の終焉
19世紀後半以降、イギリスは同盟国を持たない「光栄ある孤立」政策を維持しながらアフリカ縦断政策を進め、フランスのアフリカ横断政策と激しく衝突していた。その頂点となったのが1898年のファショダ事件であるが、両国はこれを機に武力衝突を回避し、関係改善へと舵を切った。その最大の背景には、ヴィルヘルム2世の下で「世界政策(新航路政策)」を掲げ、強力な海軍拡張を進める新興国ドイツ帝国の深刻な脅威があった。
また、1902年に結ばれた日英同盟も重要な契機である。極東においてイギリスと同盟を結ぶ日本と、フランスと同盟(露仏同盟)を結ぶロシアとの間で緊張が高まっており、仮に日露が衝突した場合、同盟関係を通じて英仏両国がヨーロッパでの直接対決に巻き込まれる恐れがあった。極東の紛争波及を避ける必要性に駆られた英仏は、1904年にエジプトにおけるイギリスの優越とモロッコにおけるフランスの優越を相互承認する形で、英仏協商を成立させたのである。
日露戦争と日本の外交戦略への影響
世界史的な出来事である英仏協商の成立は、日本史、とりわけ日露戦争(1904〜1905年)の展開において極めて重要な意味を持った。日本は日英同盟を背景にロシアと開戦したが、ロシアの同盟国であるフランスが参戦すれば、イギリスも参戦義務を負うことになり、局地戦が世界大戦へと発展する危険性を含んでいた。
しかし、英仏協商が結ばれたことで、フランスはイギリスとの決定的な対立を避けるため、極東の戦いにおいては実質的な中立を維持する方向へと傾斜した。これにより、日本は対ロシア戦に専念できる国際環境を確保できた。また、ロシアのバルチック艦隊が極東へ向かう際、フランスの植民地における寄港・補給の支援が一定の制限を受けたことは、日本の日本海海戦における歴史的勝利に間接的に寄与することとなった。
大正期への繋がり:三国協商陣営の確立と日本
英仏の接近は、さらなる国際関係の再編を促した。日露戦争後、敗北したロシアのアジア南下政策が挫折すると、1907年には英露協商が結ばれ、イギリス・フランス・ロシアによる三国協商が成立した。これにより、ヨーロッパはドイツを中心とする「三国同盟」と「三国協商」という二大陣営の対立構造へと決定的に移行した。
日本もこの国際的潮流に乗り、自国の権益を確固たるものにするため協商陣営との関係強化を図った。1907年に日仏協約および日露協約を締結し、極東・アジアにおける各国の勢力圏を相互に承認したのである。大正時代に入り、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に「協商国(連合国)」側として参戦し、ドイツの拠点であった中国の青島や南洋諸島を攻略した。すなわち英仏協商は、単なる欧州の二国間条約にとどまらず、明治末期から大正期に至る日本の帝国主義的拡張の基盤と、国際社会における立ち位置を決定づけた重大な転換点であったと言える。