英露協商 (えいろきょうしょう)
【概説】
1907年(明治40年)、イギリスとロシアの間で締結され、イランやアフガニスタンなど中央アジア・中東地域における両国の勢力範囲を調整・確定した協定。これにより19世紀以来の長きにわたる英露の世界的対立が解消された。日本史においては、日露戦争後の東アジア国際関係の再編と深く連動しており、後の大正時代における第一次世界大戦へと至る「三国協商」体制の確立を意味する重要な国際条約である。
日露戦争による国際環境の変化と英露の接近
19世紀の国際政治は、ユーラシア大陸の覇権をめぐるイギリスとロシアの対立(いわゆる「グレート・ゲーム」)を基軸に展開されていた。日本もまた、極東におけるロシアの南下政策に対抗するため1902年に日英同盟を結び、同盟国イギリスの支援を背景として日露戦争(1904〜1905年)を戦った。しかし、この戦争での敗北によりロシアは極東での拡張政策を挫折し、さらに国内で第一次ロシア革命が勃発したことで、対外政策の大幅な見直しを余儀なくされた。一方のイギリスも、世界各地で急速に建艦競争や植民地獲得を挑んできた新興国ドイツの脅威に直面しており、かつての宿敵ロシアと和解して背後の憂いを断つ必要性に迫られていたのである。
英露協商の成立と三国協商の完成
こうした背景のもと、1907年にサンクトペテルブルクで締結されたのが英露協商である。この協商では、ペルシア(現在のイラン)を北部(ロシア勢力圏)、南部(イギリス勢力圏)、中部(中立地帯)に分割し、アフガニスタンをイギリスの勢力圏とすること、さらにチベットの内政不干渉と領土保全を確認した。これにより、アジア全域における両国の境界線が確定し、長年の軍事的緊張に終止符が打たれた。ヨーロッパにおいては、すでに結ばれていた露仏同盟(1894年)および英仏協商(1904年)とあわせ、イギリス・フランス・ロシアによる三国協商体制がここに完成し、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と対峙する列強の二極化が決定づけられた。
日本外交への波及と重層的な協調体制の構築
英露協商の成立は、日本を取り巻く極東の国際秩序にも決定的な影響を与えた。英露協商が結ばれたのと同じ1907年(明治40年)、日本は日仏協約および第1回日露協約を立て続けに締結している。特に第1回日露協約では、かつて死闘を演じた敵国ロシアとの間で、北満州をロシア、南満州を日本の勢力圏とする密約を結び、互いの権益を保全する協調路線へと大きく舵を切った。すなわち、同盟国イギリスがロシアと和解したことに連動する形で、日本もロシア・フランスと関係を修復・強化したのである。これにより、日英・日露・日仏・英仏・英露・露仏の各条約・協商が網の目のように結びつく強固な現状維持のネットワークが構築された。
大正期の第一次世界大戦への布石
この列強間の重層的な協調体制は、明治末期から大正時代にかけての日本外交の基本路線となった。ヨーロッパにおける三国協商の陣営に事実上組み込まれる形となった日本は、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟を口実として協商国(連合国)側で参戦することになる。また、大戦中の1916年(大正5年)にはロシアとの間で第4回日露協約を結び、事実上の軍事同盟へと関係を深化させるに至った。英露協商は、一見すると日本から遠く離れた中央アジアでの取り決めにすぎないように見えるが、近代日本の命運を分けた大正期の国際関係と、世界大戦の枠組みを決定づけた極めて重要な外交的転換点といえるのである。