九州征討(九州平定)
【概説】
関白の豊臣秀吉が、私戦を禁じた「惣無事令」に違反した薩摩の島津氏を討伐し、九州全土を平定した一連の軍事行動。西日本における豊臣政権の支配権が確立され、天下統一に向けた大きな画期となった。
島津氏の台頭と「惣無事令」の無視
戦国時代後期の九州地方では、薩摩の大名である島津義久が急速に勢力を拡大していた。島津氏は、肥前の龍造寺氏や豊後の大友氏を圧倒し、九州のほぼ全域を勢力下に収めようとしていた。窮地に立たされた大友宗麟は、大坂城の豊臣秀吉に救援を求めた。
これに対し秀吉は、天皇から推挙された関白としての権威を背景に、大名同士の私戦を禁止し領土裁定を豊臣政権に委ねることを命じた惣無事令(私戦禁止令)を九州の諸大名に対して発令した。大友氏はこれに従ったが、九州制覇を目前に控えた島津氏は命令を無視して侵攻を継続。この惣無事令違反が、秀吉に九州出兵を決断させる大義名分となった。
圧倒的軍事力による平定と戦後処理
1587年(天正15年)、秀吉は自ら大軍を率いて出陣。弟の豊臣秀長が率いる軍勢と合わせて、総勢20万を超える圧倒的な大軍で九州へと進撃した。島津軍は戸次川の戦いなどで豊臣方の先遣隊を破るなど局地的な抵抗を見せたものの、根白坂の戦いなどで豊臣軍の本隊に敗北を喫した。薩摩に追い詰められた島津義久は降伏し、剃髪して秀吉に恭順の意を示した。
秀吉は島津氏を滅亡させることはせず、薩摩・大隅などの本領を安堵する宥和的な国分(領土仕置)を行った。また、救済を求めた大友氏には豊後一国を安堵したほか、肥後国に佐々成政、筑前国に小早川隆景を配するなど、九州の戦略的要衝に子飼いや同盟関係にある大名を配置して、政権の支配力を強化した。
「バテレン追放令」とキリスト教統制への端緒
九州征討の完了は、単なる地方割拠勢力の掃討にとどまらず、豊臣政権の政策における大きな転換点となった。遠征の途上、秀吉は九州地方におけるキリスト教の急速な普及や、大村純忠によって長崎がイエズス会に寄進されていた実態を目の当たりにした。
キリシタン大名や宣教師を通じて領民が結束することや、神社仏閣の破壊、さらには日本人の奴隷貿易が行われていることを危惧した秀吉は、平定直後の博多においてバテレン追放令を布告。宣教師の国外追放を命じるとともに、長崎を直轄領(天領)化して貿易の直接統制に乗り出した。このように、九州征討は豊臣政権によるキリスト教統制と対外政策の強化へと繋がる重要な契機となったのである。