砂川事件 (すながわじけん)
【概説】
在日米軍立川飛行場の拡張計画をめぐり、東京都砂川町(現・立川市)で起きた大規模な反対運動と、それに伴う一連の裁判。地元住民、支援の学生や労働者が警官隊と激しく衝突し、戦後の米軍基地問題の象徴的な事件となった。また、その裁判において、駐留米軍と憲法第9条との整合性や、司法の憲法判断の限界を示す「統治行為論」が示されたことで、憲法史上きわめて重要な意味を持つ。
基地拡張計画と激化する「砂川闘争」
1952(昭和27)年のサンフランシスコ平和条約発効と(旧)日米安全保障条約の締結により、日本は主権を回復したものの、日本国内には引き続き多くの米軍基地が残されることとなった。1955年5月、米軍立川飛行場の滑走路をジェット機着陸に対応させるための拡張計画が浮上し、日本政府は東京都砂川町の隣接地の強制接収(測量)を開始した。
これに対し、先祖伝来の土地を守ろうとする地元農民を中心に「砂川町基地拡張反対同盟」が結成された。この運動には、日本社会党や日本労働組合総評議会(総評)、全日本学生自治会総連合(全学連)などの支援者が多数加わり、反対運動は大規模な大衆闘争(砂川闘争)へと発展した。1956年10月には、強制測量を阻止しようとする反対派と、それを排除しようとする数千人の武装警官隊が激しく衝突し、双方に多数の負傷者を出す「流血の砂川」と呼ばれる事態に至った。
「伊達判決」とその歴史的衝撃
1957年7月、米軍基地拡張のための測量が強行されるなか、反対派の学生や労働者らの一部が、基地の境界柵を壊して立ち入る事案が発生した。これにより、立ち入った運動員らは「日米安全保障条約に基づく刑事特別法」違反の容疑で起訴された。
1959(昭和34)年3月、東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は、一審判決において画期的な司法判断を下した。伊達裁判長は、憲法第9条第2項が保持を禁じた「戦力」には、自国軍隊だけでなく、日本国内に駐留する外国軍隊(米軍)も含まれると解釈した。したがって、米軍の駐留を認める日米安保条約は憲法違反であり、違憲な安保条約に基づく刑事特別法による処罰も認められないとして、被告全員に無罪を言い渡した。この判決は「伊達判決」と呼ばれ、当時の岸信介内閣や日米両政府に多大な衝撃を与え、改定交渉中であった日米安保条約の行方にも大きな影響を及ぼした。
最高裁判決と「統治行為論」の確立
第一審の違憲判決に対し、検察側は高裁を経ずに直接最高裁判所へ上訴する「跳躍上告」を行った。同年12月、最高裁判所大法廷(裁判長・田中耕太郎最高裁長官)は、一審判決を破棄し、審理を東京地裁に差し戻す判決を下した。
最高裁は、憲法第9条が禁じているのは日本が指揮・管理できる自衛戦力であり、他国の軍隊はこれに当たらないとして、駐留米軍の違憲性を否定した。さらに、日米安保条約のような「主権国としての存立の基礎に重大な関係をもつ、高度の政治性を有する国家行為」については、一見して極めて明白に違憲無効と認められない限り、その合憲性の判断は司法府の審査権の枠外にあり、政府や国会、最終的には国民の政治的判断に委ねるべきであるとする統治行為論を採用した。この最高裁判決により被告らの有罪が確定するとともに、以後の日本の裁判において、安保条約や自衛隊の違憲性を問う訴訟に対し、司法が実質的な憲法判断を避けるための強力な判例法理が確立されることとなった。