日本社会党再統一
【概説】
1955(昭和30)年10月、サンフランシスコ平和条約の賛否などをめぐって分裂していた日本社会党の右派と左派が、再び一つの政党に合同した出来事。これにより革新陣営の大同団結が実現し、直後に成立する保守合同(自由民主党の結成)とあわせて、戦後日本の「55年体制」が幕を開ける契機となった。
左右分裂の背景と対立点
1945(昭和20)年に結党された日本社会党は、旧無産政党系の右派から左派にいたる多様なグループが結集したモザイク政党であった。そのため、結党当初から主導権争いや思想的対立を内包していた。対立が決定決定的なものとなったのが、1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約の是非をめぐる論争である。反共主義の立場から平和条約のみを容認しようとする社会党右派に対し、非武装中立と全面講和を唱えて両条約ともに反対する社会党左派が激しく対立し、同年の臨時党大会において党は左右に分裂した。分裂期においては、総評(日本労働組合総評議会)の強力な支援を受けた左派が、憲法改正阻止や平和主義の世論を追い風に支持を伸ばし、右派をしのぐ勢力となっていった。
再統一の要因と「55年体制」への影響
左右分裂後も、それぞれの社会党は議席を伸ばしていったが、単独での政権獲得は依然として困難であった。1950年代半ばになると、改憲や再軍備を推し進めようとする保守勢力に対抗するため、革新陣営の結集を求める世論や総評からの統一圧力が強まった。これにより、1955(昭和30)年10月13日に「社会党再統一大会」が開催され、左右両派が合流した統一日本社会党が誕生した。この革新大合同は保守陣営に強い危機感を与え、翌11月の保守合同(自由党と日本民主党の合併による自由民主党の結成)を促す直接の引き金となった。こうして、政権交代可能な二大政党制を模索しつつも、実際には自民党が与党(3分の2弱)、社会党が野党第一党(3分の1強)として対峙し続ける「55年体制」が確立したのである。