円覚寺 (えんがくじ)
【概説】
蒙古襲来(元寇)の戦死者を敵味方なく弔うため、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が南宋からの渡来僧である無学祖元を開山として鎌倉に建立した臨済宗の寺院。鎌倉五山の第二位に列せられ、日本の禅宗文化や武家文化の発展に多大な影響を与えた。
蒙古襲来と「怨親平等」の精神
円覚寺は1282年(弘安5年)、鎌倉幕府第8代執権である北条時宗によって建立された。その最大の目的は、1274年の文永の役および1281年の弘安の役という、未曾有の国難であった蒙古襲来(元寇)における戦死者を弔うことであった。ここで特筆すべきは、国を守るために倒れた日本の将兵だけでなく、侵略者であった元軍の死者をも分け隔てなく供養した点である。この敵味方を区別しない怨親平等(おんしんびょうどう)の理念は、当時の時宗の深い信仰心と禅の精神を象徴するものであり、円覚寺の建立に込められた平和への切実な祈りを伝えている。
無学祖元の招聘と武士階級への禅宗普及
開山(初代住職)として招かれたのは、南宋から渡来した高僧・無学祖元である。北条時宗は元寇という極限の危機のなかで精神的な支柱を禅に求めており、無学祖元に深く帰依していた。弘安の役の際、無学祖元が「莫煩悩(煩うこと莫れ)」と時宗を励ましたエピソードはよく知られている。幕府の最高権力者である時宗が円覚寺を創建し、手厚く保護したことは、鎌倉における臨済宗の興隆を決定づけた。これにより、死や恐怖と直面する武士階級の間に、座禅を通じて己と向き合う禅の思想が急速に浸透していくこととなった。
鎌倉五山における地位と文化の殿堂
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、幕府によって中国の制度に倣った禅宗寺院の格付けである「五山・十刹の制」が整備されると、円覚寺は建長寺に次ぐ鎌倉五山の第二位に列せられた。室町幕府からも継続して厚い庇護を受け、多くの学僧が集い修行する一大道場へと成長した。また、五山文学の中心地の一つとして、漢文学や水墨画などの中世禅宗文化の発信を担い、武家文化の成熟に大きく貢献した。
禅宗様建築と貴重な文化財
円覚寺は、中国の宋代の様式を導入した禅宗様(唐様)の建築を今日に伝える点でも極めて重要な寺院である。境内にある舎利殿(室町時代建造、国宝)は、屋根の強い反りや、柱の上だけでなく柱間にも組物を配置する詰組(つめぐみ)といった禅宗様の特徴を完璧な形で残しており、日本の禅宗建築の最古にして最高の遺構の一つとされている。また、関東地方最大の梵鐘である洪鐘(おおがね)も国宝に指定されており、円覚寺は中世日本の宗教と文化の息吹を今に伝える文化財の宝庫となっている。