慶長勅版(古活字版) (けいちょうちょくはん(こかつじばん)
【概説】
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に持ち帰られた朝鮮の金属活字などを契機とし、後陽成天皇の勅命によって刊行された一連の印刷物。安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて流行した「古活字版」の先駆であり、日本の出版文化が中世の書写から近世の商業出版へと移行する重要な転換点となった。
活版印刷技術の伝来と背景
16世紀末の日本には、二つのルートから活版印刷技術が相次いでもたらされた。一つは、1590(天正18)年にアレッサンドロ・ヴァリニャーノら遣欧使節の帰国に伴ってヨーロッパから持ち込まれた西洋式の活版印刷機であり、これによって印刷された書物はキリシタン版と呼ばれる。もう一つが、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に、朝鮮半島から持ち帰られた金属活字(銅活字)と印刷用の用具である。
当時の朝鮮王朝は、国家主導で高度な金属活字印刷技術を発達させていた。日本軍は戦利品としてこれらの印刷機材や活字を略奪・将来し、豊臣秀吉に献上した。この東アジアにおける軍事侵攻を通じてもたらされた朝鮮伝来の活字印刷技術が、その後の日本における独自の出版ブームを引き起こす直接的な契機となったのである。
後陽成天皇と慶長勅版の開版
将来された朝鮮の印刷技術に強い関心を示したのが、学問を好んだ後陽成天皇であった。天皇は秀吉から献上された銅活字や印刷機材を用い、あるいはそれを模刻させた木活字を新たに作らせて、勅命による書物の刊行を命じた。これが慶長勅版である。
慶長勅版の代表的なものとしては、1597(慶長2)年に刊行された『錦繍段(きんしゅうだん)』や『古文孝経』が挙げられる。さらに1599(慶長4)年に刊行された『日本書紀神代巻』は、日本初の国書(日本の書物)の活字印刷として歴史的意義が深い。その後も『孔子家語』や『職事補任』などが次々と開版された。これらは主に公家や五山僧などの知識人層に向けて少部数が刷られ、下賜される性質のものであった。
「古活字版」の流行と多様な担い手
慶長勅版の成功は、時の権力者たちに活字印刷の有用性を広く知らしめた。徳川家康もこの技術に注目し、足利学校の円済らに命じて伏見版(木活字主体)や駿河版(銅活字主体)を開版し、『吾妻鏡』や『群書治要』などを出版した。また、豊臣秀頼や直江兼続といった大名たちもこぞって出版事業を手掛けるようになった。
この活版技術の波は、武家や公家にとどまらず、京都の裕福な町衆にも波及した。本阿弥光悦や角倉素庵らが刊行した嵯峨本(光悦謡本)は、日本の仮名文字特有の流麗な連綿体(続け字)を木活字で再現し、雲母刷りの美しい装飾紙を用いた美術的価値の高い活字本である。
このように、安土桃山時代末期から江戸時代初期(寛永期頃)にかけて、金属製あるいは木製の活字を組み合わせて印刷された書物を総称して古活字版(こかつじばん)と呼ぶ。古活字版の流行により、古典文学や仏教書、儒学書などが世に出回り、近世日本の学問や文化の裾野を飛躍的に広げることとなった。
整版(木版)への回帰とその歴史的意義
約半世紀にわたって隆盛を誇った古活字版であったが、17世紀半ばを過ぎると急速に衰退し、一枚の板に文字と絵を直接彫り込む整版(木版印刷)へと回帰していく。その最大の理由は、活字印刷が近世的な「商業出版」の形態に不向きだったためである。活版印刷では印刷が終われば活字を解体してしまうため、売れ行きに応じて増刷するたびに組み直す手間がかかった。一方、整版であれば版木さえ保存しておけばいつでも容易に再版が可能であった。
また、文字を繋げて書く連綿体や、挿絵と文字を同一画面に一体化させる日本の書物文化の嗜好には、活字よりも整版の方が適していたという技術的・美的な要因も大きい。
活版印刷は江戸時代を通じて一時的に姿を消すものの、慶長勅版から始まった古活字版の時代は、日本の書物が「手書きの書写(一品物)」から「規格化された大量生産品」へと移行する決定的な過渡期であった。この時代に出版の土台が築かれたからこそ、後の元禄文化や化政文化における豊穣な大衆出版文化(浮世草子や黄表紙など)が開花することとなったのである。