口分田 (くぶんでん)
【概説】
飛鳥時代から平安時代前期にかけて、律令国家の班田収授法に基づき人民に割り当てられた田地。戸籍に登録された6歳以上の男女に対して身分や性別に応じた面積が支給され、死亡すると国家に返還された。律令制における公地公民の原則を体現し、国家の租税収取体制の根幹を担った。
公地公民制と口分田の創設
7世紀中葉の大化の改新を契機として、古代日本は豪族による土地・人民の私有制(氏姓制度)から、国家が直接これらを支配する中央集権的な律令国家へと転換を図った。その根本原理となったのが「公地公民」の理念である。646年(大化2年)の改新の詔において初めて班田収授の構想が示され、その後、飛鳥浄御原令や701年(大宝元年)の大宝律令によって制度として確立した。
この制度のもとで、国家から人民に支給された生活・生産の基盤が口分田である。土地はあくまで国家のものであるため、農民による売買は固く禁じられており、受給者が死亡した際には速やかに国家へと返還(収授)させられる仕組みとなっていた。
班給の基準と実施方法
口分田の支給は、国家が6年ごとに作成する戸籍に基づいて行われた。これを班田収授法と呼ぶ。支給対象は6歳以上のすべての男女であり、性別や身分によって割り当てられる面積に明確な格差が設けられていた。
律令の規定によれば、良民の男性には2段(約2400平方メートル)、良民の女性にはその3分の2にあたる1段120歩が支給された。また、賤民(五色の賤)についても、官戸や公奴婢には良民と同額が、家人や私奴婢には良民の3分の1が与えられた。これらの支給される田地は、土地を整然と区画する条里制によって厳密に管理・把握されていた。
租税システムとの不可分な関係
口分田の支給は、単なる人民への生活保障ではなく、国家が確実な税収を得るための手段であった。国家は口分田を与える対価として、人民に対して納税の義務を課したのである。
口分田からの収穫物に対しては、面積に応じて約3%の稲を納める「租」が賦課された。しかし、律令制下における農民の負担はこれに留まらず、成人男性(正丁)には特産物を納める「調」、布や都での労役を負担する「庸」、地方での年間最大60日の労役である「雑徭」、さらには防人などの兵役の義務まで課せられていた。支給された口分田からの収穫だけでは生活と納税を両立することが困難な農民も多く、次第に疲弊する層が続出することとなった。
口分田の不足と制度の崩壊
奈良時代に入ると、人口の増加に伴って班給すべき口分田が不足するという深刻な事態に直面した。政府は事態を打開するため、百万町歩の開墾計画や723年(養老7年)の三世一身法、そして743年(天平15年)の墾田永年私財法を次々と発布し、新たに開墾した土地の私有を認めた。これにより、公地公民を前提とする口分田の理念は根底から揺らぐこととなった。
さらに、過酷な重税から逃れるための農民の逃亡や浮浪、あるいは戸籍上の性別を女性と偽って負担を免れようとする「偽籍」が横行し、口分田を支給する大前提となる戸籍制度そのものが機能不全に陥った。平安時代に入ると班田の実施は次第に遅滞し、902年(延喜2年)の班田を最後に、口分田の制度は事実上消滅を迎え、日本は中世的な荘園公領制へと大きく転換していくのである。