活版印刷術
【概説】
イエズス会の宣教師ヴァリニャーノがヨーロッパから活字と印刷機を持ち込み、日本で初めて本格的な活字印刷を可能にした西洋の技術。キリスト教の布教を目的として導入され、教理書や語学書、日本古典文学など多数の書物(キリシタン版)が刊行された。日本の言語学や文化史において極めて重要な史料を残したが、その後の禁教政策によって技術は一時断絶した。
宣教師ヴァリニャーノによる活字印刷機の伝来
15世紀半ばにドイツのグーテンベルクが実用化した活版印刷術は、ヨーロッパにおける情報伝達に革命をもたらし、宗教改革やルネサンスを推進する原動力となった。この画期的な技術を日本に初めて持ち込んだのが、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
ヴァリニャーノは、自らが発案してヨーロッパへ派遣した天正遣欧少年使節の帰国に伴い、1590年(天正18年)にグーテンベルク式活版印刷機と金属活字を日本へと持ち込んだ。最初の印刷所は肥前国加津佐(現在の長崎県南島原市)のコレジオ(神学校)に設置され、その後、宣教師たちの移動に伴って天草や長崎へと移転しながら、本格的な出版事業が展開された。
キリシタン版の刊行と多様な展開
この活版印刷機を用いて日本で出版された書物は、総称してキリシタン版と呼ばれる。当初はヨーロッパから持ち込まれたラテン文字(ローマ字)の金属活字を用いて印刷が行われていたが、やがて日本人信者らの協力により、木製や金属製の漢字・平仮名活字も独自に鋳造されるようになった。
印刷された書物は、キリスト教の教理書である『どちりな・きりしたん』をはじめ、聖人伝や祈祷書など、布教活動や信者の信仰生活に直結するものが中心であった。一文字ずつ活字を拾って組み上げる活版印刷術の導入は、手書きの写本に頼っていた以前の布教活動に比べ、書物の大量生産を可能にし、キリスト教の教義の均一な普及に大きく貢献した。
日本文化への影響と語学・文学的価値
活版印刷術の導入は、単なる宗教書の普及にとどまらず、日本の語学や文学の研究にも多大な影響を与えた。宣教師たちが日本語を学ぶため、あるいは日本人信者がラテン語を学ぶための語学書や辞書が多数編纂されたのである。中でも1603年に長崎で刊行された『日葡辞書(にっぽじしょ)』は、当時の日本語の語彙およそ3万2000語を収録し、ポルトガル語で詳細な解説を加えたもので、中世から近世への移行期における日本語の姿を知るための第一級の言語学史料となっている。
また、宣教師の日本語学習のテキストとして、日本の古典文学や物語もローマ字綴りで印刷された。代表的なものに『平家物語』や、イソップ寓話の翻訳である『天草版伊曽保物語(イソポのハブラス)』がある。これらは当時の日本語の正確な発音やアクセント、口語表現をローマ字で記録しているため、現代の国語学研究においても極めて重要な価値を持っている。
禁教政策による弾圧と技術の断絶
日本の出版文化に新風を吹き込んだ活版印刷術であったが、その歴史は長くは続かなかった。豊臣秀吉による1587年のバテレン追放令以降、キリスト教に対する警戒は強まっており、江戸幕府が成立すると弾圧はさらに激化していった。
1614年(慶長19年)、徳川家康によって全国的なキリスト教禁教令が発布されると、宣教師たちはマカオやマニラへ追放され、印刷機や活字も日本から持ち出されるか破棄された。また、刊行されたキリシタン版の多くも厳しい詮議によって焼却されたため、現在残存しているものはごく僅かである。
これにより、日本における西洋式活版印刷術は完全に断絶し、江戸時代を通じた日本の出版文化は、再び伝統的な木版印刷(整版)が主流となった。日本に活版印刷術が再び導入され、近代的な出版業が花開くのは、幕末から明治期にかけての長崎の通詞・本木昌造らの登場を待たねばならなかった。