安保闘争
【概説】
1960年、日米安全保障条約の改定に反対して展開された、戦後日本における最大規模の大衆運動。岸信介内閣による新条約承認の強行採決を契機に、数百万人の労働者・学生・一般市民が参加し、条約反対や民主主義擁護、内閣退陣を訴えて国会を包囲するなど日本社会を大きく揺るがした。
旧安保条約の課題と改定への動き
1951年にサンフランシスコ平和条約とともに締結された旧日米安全保障条約は、米軍の日本駐留を認める一方で、アメリカ側の日本防衛義務が明記されていない極めて片務的なものであった。さらに、日本の国内騒乱の際に米軍が出動できる「内乱条項」が含まれているなど、独立国としての主権を著しく制約する不平等な性格を持っていた。1957年に首相に就任した岸信介は、日米関係をより対等なパートナーシップへと引き上げるため、安保条約の改定交渉に着手し、1960年1月にワシントンで新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)に調印した。
しかし、新条約は日米の共同防衛を明確化するものであり、冷戦構造下において日本がアメリカの世界戦略や戦争に自動的に巻き込まれる危険性を高めるとして、革新政党や労働組合、知識人から強い懸念と反発が巻き起こった。1959年には日本社会党や総評(日本労働組合総評議会)を中心とする「安保改定阻止国民会議」が結成され、全国規模で反対運動が展開されるようになった。
強行採決と「民主主義の擁護」への変質
反対運動が次第に熱を帯びるなか、岸内閣はアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日を前に条約の国会承認を急いだ。1960年5月19日深夜から20日未明にかけて、政府・与党は国会議事堂内に約500名の警官隊を導入して座り込む野党議員を排除し、衆議院本会議で新安保条約の承認を単独強行採決した。
この強行採決は、国民の目に「議会制民主主義の破壊」と映り、事態を大きく一変させた。それまで条約の内容そのものに反対していた労働組合や全学連(全日本学生自治会総連合)の学生だけでなく、一般市民や文化人、主婦層までもが「民主主義の危機」を感じて運動に合流したのである。運動の目的は単なる反米・反基地闘争から「民主主義の擁護」と「岸内閣打倒」へと拡大し、連日数十万人規模のデモ隊が国会議事堂周辺を埋め尽くすという、戦後空前の大衆闘争へと発展した。
流血の惨事と岸内閣の退陣
デモの規模が膨れ上がるなか、6月15日には国会構内への突入を図った全学連主流派の学生と警官隊が激しく衝突し、東京大学の女子学生であった樺美智子が死亡する流血の惨事となった(6・15事件)。この事件は国民に大きな衝撃を与え、岸内閣への非難は頂点に達した。全国で抗議のゼネストが実施され、政府は国内の混乱を収拾できないとして、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日延期(事実上の中止)を余儀なくされた。
新安保条約は参議院での議決を経ないまま、憲法の規定により衆議院通過から30日後の6月19日午前0時に自然成立した。所期の目的である条約改定を果たした岸内閣であったが、未曾有の社会的混乱の責任をとる形で、新条約の批准書交換が行われた直後の6月23日に総辞職した。
安保闘争の歴史的意義とその後
1960年の安保闘争(60年安保)は、日本の戦後民主主義が機能しうるかを問うた歴史的な分岐点であった。条約の成立自体は阻止できなかったものの、主権在民の意識に基づく広範な国民が自発的に政治に参加し、時の政権を退陣に追い込んだことは、戦後社会における市民運動の特筆すべき出来事となった。
岸内閣の後を受けて成立した池田勇人内閣は、安保闘争での激しいイデオロギー対立の反省から、「寛容と忍耐」をスローガンに掲げて対決姿勢を避け、国民の関心を政治から経済へと転換させるべく「国民所得倍増計画」を打ち出した。これにより日本は「政治の季節」から「経済の季節」へと移り変わり、高度経済成長期へと本格的に突入していくことになった。なお、1970年の安保条約の自動延長の際にも再び反対運動が起きたが(70年安保闘争)、学生運動の過激化や内部対立(内ゲバ)、高度経済成長による生活水準の向上などもあり、60年安保ほどの広範な大衆の支持を得ることはできなかった。