関東軍
【概説】
関東州の警備と南満州鉄道(満鉄)の守備を主目的として、中国東北部(満州)に駐留した日本陸軍の部隊。日露戦争後に獲得した日本の権益を維持するために設置されたが、次第に政府や軍中央の統制を逸脱して独断専行を強めるようになった。張作霖爆殺事件や満州事変を引き起こし、傀儡国家である満州国の建国と実質的な支配を主導したことで知られる。
創設の背景と「関東」の由来
日露戦争後の1905年、日本はポーツマス条約によってロシアから遼東半島南端部の租借権と、長春・旅順間の鉄道(のちの南満州鉄道)などの権益を譲り受けた。日本は1906年にこれらの権益を統治・警備するために関東都督府を設置した。「関東」とは、万里の長城の東端にある要衝・山海関の東側(すなわち満州)を意味する言葉である。その後、1919年(大正8年)に民政部門が関東庁として独立したことに伴い、軍事部門が独立して誕生したのが関東軍である。当初の主な任務は、関東州の警備と満鉄沿線の守備という限定的なものであった。
中国ナショナリズムの高まりと独断専行
1920年代に入ると、中国本土では孫文や蔣介石らによる国権回復運動が高まりを見せ、欧米や日本が持つ不平等条約や権益の撤廃を求める声が強まった。1928年には蔣介石率いる国民革命軍が北京に向けて北上する「北伐」が進展し、日本の権益の集中する満州にもその波及が懸念されるようになった。日本の生命線ともいえる満州の権益を死守したい関東軍は、政府の穏健な外交方針に不満を募らせていく。その結果、同年に関東軍の高級参謀・河本大作らが、満州の軍閥である張作霖が乗る列車を爆破して暗殺する張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を引き起こした。これは、現地の軍隊が中央の統制を無視して独断で武力行使に及んだ象徴的な事件であり、その後の軍部暴走の端緒となった。
満州事変の勃発と満州国の支配
1930年代に入ると、世界恐慌の影響で国内経済が疲弊する中、軍部や右翼の間で「満州領有」によって事態の打開を図ろうとする急進的な機運が高まった。1931年(昭和6年)、関東軍作戦参謀の石原莞爾や板垣征四郎らは、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路を自ら爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始した(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。関東軍は若槻礼次郎内閣が示した「不拡大方針」を完全に無視して軍事行動を拡大し、わずか半年の間に満州全土を占領した。
翌1932年、関東軍は清朝の最後の皇帝であった溥儀を執政(のちに皇帝)に擁立し、満州国を建国した。名目上は独立国家であったが、政府の要職には日本人が就き、関東軍司令官が駐満大使を兼任するなど、実態は関東軍の完全な傀儡国家であった。関東軍は「満州の防衛」を名目に絶大な権力を握り、日本の大陸侵略における最大の拠点となった。
太平洋戦争における弱体化と崩壊
日中戦争が泥沼化し、さらに1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本の戦線はアジア全域へと拡大した。関東軍は北方のソ連の脅威に備える精鋭部隊とみなされていたが、戦局の悪化に伴い、兵力や兵器の多くが南方戦線へと引き抜かれていった。その結果、大戦末期の関東軍は、現地で急遽召集された訓練不足の兵士を中心とする弱体化した部隊へと変貌していた。
1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄してソ連が対日参戦を果たすと、圧倒的な戦力差の前に満州の防衛線は一気に崩壊した。この際、関東軍は軍隊の撤退を優先させ、多くの日本人開拓団や民間人が現地に取り残されるという悲劇を生んだ。日本のポツダム宣言受諾後に武装解除された関東軍の将兵や民間人は、およそ60万人がシベリアや中央アジアの収容所に連行され、過酷な労働を強いられるシベリア抑留の犠牲となった。