第3次山東出兵

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
山東出兵(Wikipedia)

第3次山東出兵

1928年

【概説】
1928年(昭和3年)5月、田中義一内閣が済南事件の発生を受けて、中国の山東半島へ追加の軍隊を派遣した軍事行動。
蒋介石率いる国民革命軍との全面的な武力衝突に発展して山東省の要衝を占領下に置いたため、中国全土で激しい抗日運動と日貨排斥を引き起こし、日中関係を決定的に悪化させた。

済南事件の勃発と増派の決定

1927年(昭和2年)に成立した立憲政友会の田中義一内閣は、従来の幣原喜重郎外相による協調外交(幣原外交)を軟弱であるとして批判し、満州・蒙古の権益保護を最優先とする強硬な対中国政策を展開した。蒋介石率いる中国国民党の北伐(ほくばつ)が再開されると、田中内閣は「現地居留民の保護」を名目に、1928年(昭和3年)4月に第2次山東出兵を断行し、山東省の省都・済南(さいなん)へ軍を進めた。

同年5月3日、済南に入城した国民革命軍と日本軍との間で武力衝突が発生し、双方に多数の死傷者が出る事態となった。これが済南事件である。この事件の報を受けた田中内閣と陸軍中央は、事態を重く見てただちに名古屋の第3師団を主力とする大規模な増援部隊の派遣を決定した。この5月8日に発令された追加派兵が第3次山東出兵である。

済南城の総攻撃と北伐軍の迂回

増援部隊の派遣に伴い、日本軍は現地における軍事行動をさらにエスカレートさせた。現地軍司令官の福田彦助中将は国民革命軍に対して最後通牒を突きつけ、5月8日から済南城に対する本格的な総攻撃を開始した。日本軍は重砲や航空機まで動員して激しい砲爆撃を加え、5月11日に済南城を完全に武力占領したほか、青島から済南に至る山東鉄道(膠済鉄道)の沿線全域を軍事管理下に置いた。

これに対し、国民革命軍を率いる蒋介石は、圧倒的な軍事力を持つ日本軍との全面戦争に陥れば悲願である中国統一(北伐の完遂)が頓挫すると冷静に判断した。そのため、蒋介石は日本軍との正面衝突を避けて済南から主力部隊を撤退させ、遠回りをして北京・天津方面へと進撃する「迂回北伐」の戦術をとった。この結果、日本政府や軍部が意図していた「北伐の阻止」と「満州の張作霖政権の温存」という政治的狙いは空振りに終わることとなった。

抗日運動の激化と張作霖爆殺事件への連鎖

第3次山東出兵による済南の武力占領と、その過程で生じた多数の中国軍民の犠牲は、中国社会に激しい憤激を巻き起こした。中国全土で反日感情が沸騰し、組織的な抗日運動や日本製品の不買運動(日貨排斥・ボイコット)がかつてない規模で展開され、日本の対中貿易は深刻な打撃を受けた。また、国際社会からも日本の過剰な軍事介入に対する疑念の目が向けられるようになった。

さらに、日本軍の威嚇にもかかわらず北伐軍が北京へ迫ったことで、満州への戦火の波及を恐れた関東軍の暴走を招くこととなる。第3次山東出兵の翌月である1928年6月、北京から満州へ引き揚げる途上の張作霖が関東軍によって暗殺される張作霖爆殺事件(満州某重大事件)が引き起こされた。その後、日本政府は1929年(昭和4年)3月に国民政府との間で済南事件の解決に関する協定を結び、同年5月になってようやく山東から全軍を撤兵させたが、一連の山東出兵が残した爪痕は深く、満州事変へと至る日中対立の重大な伏線となった。

最終更新:
2026年10月1日 @ 22:27

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