済南事件 (さいなんじけん)
【概説】
1928(昭和3)年5月、第2次山東出兵によって中国の山東省済南に進出した日本軍と、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)との間で発生した大規模な武力衝突事件。日本の対中国干渉政策が引き起こした深刻な軍事衝突であり、その後の日中関係の悪化と満州事変へと至る対立の伏線となった。
田中義一内閣の「積極外交」と山東出兵の背景
大正末期から昭和初期にかけて、日本の対中国外交は立憲民政党の幣原喜重郎外相による「協調外交(幣原外交)」が主流であった。これは中国の内政への不干渉を原則とし、欧米列強との協調のもとに日本の権益を守ろうとするものであった。しかし、1927(昭和2)年に成立した立憲政友会の田中義一内閣はこれを「軟弱外交」と厳しく批判し、日本の権益を武力を用いてでも強硬に守る「積極外交」へと方針を転換した。
当時、中国では蒋介石率いる国民政府が、軍閥を打倒して中国統一を目指す北伐(ほくばつ)を急ピッチで進めていた。北伐軍が華北、ひいては日本の権益が集中する満洲へと迫ることを警戒した田中義一内閣は、山東省に居住する日本人居留民の保護を口実に、1927年5月に第1次山東出兵を強行した。この時は本格的な衝突に至らず撤兵したものの、翌1928年4月、北伐のさらなる進展に伴い、日本は再び第2次山東出兵を行い、軍を山東省の要衝である済南(さいなん)へと進出させた。
済南での武力衝突と「済南惨案」
1928年5月3日、済南に入城した日本軍と、同じく市街に進出していた国民革命軍(北伐軍)の間で偶発的な銃撃戦が発生した。双方の不信感から戦闘は瞬く間に拡大し、一時的な停戦合意がなされたものの、日本側は態度を極めて強硬化させた。日本軍は本土から増援部隊を急派(第3次山東出兵)し、済南の市街地に対して激しい砲撃を加え、武力制圧を試みた。
この戦闘の過程で、国民政府の外交交渉官であった蔡公時が日本軍によって惨殺されるなど、多くの中国側官民が犠牲となった。中国側はこの一連の事件を「済南惨案」と呼び、日本に対する激しい憤りを募らせた。結果として、日本軍は済南や膠済鉄道沿線を占領したものの、この軍事行動は中国国民のナショナリズムを著しく刺激し、中国全土で大規模な排日ボイコット(日貨排斥運動)を巻き起こすこととなった。これにより、居留民保護という当初の目的とは裏腹に、日本の経済的・外交的立場はむしろ悪化することとなった。
事件の影響と張作霖爆殺事件への連鎖
済南事件は、局地的な衝突に留まらず、東アジアの政治ダイナミクスを大きく変える契機となった。済南での衝突を回避して北上を続けた蒋介石の北伐軍は、北京を支配していた奉天軍閥の領袖・張作霖(ちょうさくりん)を追い詰めた。日本政府(田中内閣)は張作霖に対し、北京を放棄して本拠地である満洲へ退却するよう促した。
しかし、満洲における日本の生命線(権益)を守ろうとする現地の関東軍は、敗退した張作霖が満洲に混乱を持ち込むことを強く警戒した。関東軍は、張作霖ではもはや満洲の治安維持や日本の権益確保は不可能であると判断し、独自の満洲支配を画策するようになる。これが、同年6月4日に引き起こされた張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)の直接的な引き金となった。済南事件から張作霖爆殺事件へと至る一連の強硬路線は、田中義一内閣の外交政策を破綻させ、のちの満洲事変、そして日中戦争へと至る泥沼の軍事衝突の歴史的な起点となったのである。