三浦氏 (みうらし)
【概説】
相模国三浦郡(現在の神奈川県横須賀市周辺)を本拠とした鎌倉時代の有力御家人。源頼朝の挙兵を支えて幕府創設に大きく貢献し、後に北条氏と並ぶ有力な勢力となった。しかし、北条氏による他氏排斥の標的となり、1247年の宝治合戦で宗家が滅ぼされた。
源頼朝の挙兵と幕府創業における役割
三浦氏は平高望(桓武平氏)の流れを汲む武士団であり、平安時代後期から相模国の衣笠城を拠点に勢力を拡大していた。1180年、源頼朝が伊豆で挙兵した際、長老の三浦義明(三浦大介)らはすぐにこれに呼応した。頼朝軍が石橋山の戦いで大敗を喫すると、三浦氏は本拠地の衣笠城を平家方の畠山重忠らに攻め立てられ、義明は討ち死にを遂げたが、一族の義澄(義明の子)や和田義盛(義明の孫)らは海上を脱出して頼朝と合流した。
その後、頼朝の再起と東国支配の確立に多大な功績を残し、鎌倉幕府が成立すると、三浦義澄は頼朝を支える有力御家人となった。頼朝の死後、2代将軍源頼家の時代に設置された「十三人の合議制」には、義澄がそのメンバーとして名を連ね、同族の和田義盛は初代の侍所別当(軍事・警察の長官)として幕政の中枢を担った。このように、三浦氏は幕府の草創期において欠かせない重鎮の地位を築いたのである。
北条氏との協調と「和田合戦」での苦渋の選択
頼朝の死後、幕府内では北条氏による権力奪取を目的とした他氏排斥運動が激化した。梶原景時の変、比企能員の変などの政争が続くなか、三浦氏の惣領となった三浦義村(義澄の子)は、巧みな政治感覚で北条氏(北条義時など)と同盟関係を維持し、生き残りを図った。
1213年に起きた和田合戦は、三浦氏にとって大きな試練となった。実力者であった和田義盛が北条義時を打倒すべく挙兵した際、同族である三浦義村は当初、義盛への加担を約束する起請文を書いていた。しかし、土壇場で義村は裏切りを選択し、北条方に味方した。その結果、和田一族は滅亡したが、三浦氏は幕府内での地位を確固たるものにし、北条氏に次ぐ実力者としての地位を保持することに成功した。1221年の承久の乱においても、義村は弟の三浦胤義が後鳥羽上皇方に付いたにもかかわらず、一貫して幕府方に立って軍功を挙げている。
「宝治合戦」による惣領家の滅亡とその後
三浦義村の死後、その子である三浦泰村・三浦光村の兄弟が家督を継いだが、巨大化した三浦氏の存在は、北条氏にとって最大の脅威となっていた。特に5代執権の北条時頼、およびその外戚である安達氏(安達景盛ら)は、三浦氏の排除を画策した。
1247年、些細な対立から緊張が高まり、武力衝突を回避しようとする泰村の努力も虚しく、安達氏らの奇襲によって宝治合戦が勃発した。鎌倉で孤立した三浦一族は奮戦したものの、源頼朝の墓所である法華堂に追い詰められ、泰村・光村を含む一族500余人が自刃した。これにより、平安時代から続いた鎌倉武士の名門・三浦氏の惣領家は完全に滅亡した。
なお、合戦の際に北条方に味方した一族の佐原光時(三浦義明の孫・佐原義連の子孫)が、後に三浦の家名を継ぐことを許され、相模三浦氏(新三浦氏)として再興された。しかし、かつて幕府を揺るがしたほどの強大な政治的影響力を取り戻すことはなく、室町時代から戦国時代にかけて相模国の東部で命脈を保った後、1516年に北条早雲(伊勢宗瑞)によって新井城で滅ぼされることとなる。