徳川家達 (とくがわいえさと)
【概説】
徳川宗家第16代当主であり、長年にわたって貴族院議長を務めた近代日本の政治家。大正10年(1921年)にはワシントン会議の日本全権として派遣され、大正期の国際協調外交を支える象徴的な役割を果たした。
徳川宗家の継承と近代日本における歩み
徳川家達は幕末の文久3年(1863年)、田安徳川家に生まれた。慶応4年(1868年)に戊辰戦争で江戸幕府が崩壊し、最後の将軍・徳川慶喜が隠居すると、わずか4歳で徳川宗家第16代当主を継承した。新政府のもとで駿府(静岡)藩知事を務めた後、イギリスへ留学して西洋の社会と制度を学んだ。
明治17年(1884年)の華族令制定に伴い最高爵位である公爵に叙され、明治23年(1890年)の帝国議会開設とともに貴族院議員となった。明治36年(1903年)には貴族院議長に就任し、昭和8年(1933年)まで30年の長きにわたって同職を全うした。政党政治の台頭や藩閥勢力の後退という激動の時代において、議会のもう一つの極である貴族院をまとめ上げ、国家の政治的安定に寄与した。
ワシントン会議派遣と国際協調への足跡
第一次世界大戦後の大正10年(1921年)、アメリカ大統領ハーディングの提唱により、軍縮と極東問題を話し合うワシントン会議が開催された。この際、家達は海軍大臣の加藤友三郎、駐米大使の幣原喜重郎とともに、日本全権の一人として派遣された。
この人選の背景には、かつての将軍家当主であり、議会の重鎮である家達を立てることで、日本が軍国主義の国ではなく、民主主義と平和を重んじる国際協調路線(大正デモクラシー期におけるいわゆる「協調外交」)に転換したことを諸外国にアピールする狙いがあった。家達は流暢な英語を駆使して社交や民間外交の場に積極的に立ち、日本のイメージ向上と条約調印への環境づくりに尽力した。この会議を通じて、のちの「ワシントン体制」と呼ばれる第一次世界大戦後の東アジア・太平洋秩序が形成された。
「徳川内閣」の幻と晩年の社会貢献
貴族院の顔として政界に重きをなした家達は、しばしば首相候補としても名が上がった。特に大正3年(1914年)、シーメンス事件によって第1次山本権兵衛内閣が総辞職した際、元老の推薦によって家達に組閣の大命(総理大臣就任の打診)が下った。しかし、徳川家が再び政権を担当することに対する世論の反発や、政治的混乱に巻き込まれることを懸念した家達はこれを固辞し、幻の「徳川内閣」となった。
晩年の家達は、政治の表舞台から徐々に身を引きつつも、日本赤十字社社長や、1940年に開催が予定されていた「幻の東京オリンピック」の組織委員会会長を務めるなど、社会事業や国際文化交流の分野で精力的に活動を続けた。その生涯は、旧幕藩体制の頂点にあった徳川家が、明治・大正・昭和の近代国家において新たな役割を見出し、華族の筆頭として国家に貢献した歴史を象徴している。