楯築墳丘墓

重要度
★★

【参考リンク】
楯築遺跡(Wikipedia)

外枠 楯築墳丘墓 (たてつきふんきゅうぼ)

2世紀後半〜3世紀初頭頃

【概説】
岡山県倉敷市に所在する、弥生時代後期としては国内最大級の規模を誇る墳丘墓。中心の円丘部に2つの突出部が取り付いた双方中円形という独特の形状を持ち、後の古墳時代における前方後円墳の成立や吉備地方の強大な勢力の存在を示す極めて重要な遺跡。

巨大墳丘墓の出現と吉備の首長権

弥生時代後期、日本列島各地ではそれまでの共同墓地から、有力な個人を埋葬するための大規模な墳丘墓(地域国家の王の墓)が造営されるようになった。その中でも出雲の四隅突出型墳丘墓と並び、圧倒的な規模と先進性を示すのが吉備(現在の岡山県および広島県東部)に築かれた楯築墳丘墓である。

楯築墳丘墓は、全長約80メートルにおよぶ規模を有し、当時の他地域を圧倒する。中心の円丘部(直径約50メートル、高さ約5メートル)の頂上には、木槨(もっかく)の中に木棺を納めた主主体部が設けられ、そこから多量の水銀朱や鉄器、肉厚の首飾りに使われた碧玉製の管玉などが出土した。この莫大な富と労働力を動員できた背景には、当時の吉備地方に、近畿(ヤマト)の勢力に匹敵する、あるいはそれを主導するほどの強力な首長(王)連合が存在していたことを物語っている。

「双方中円」の特殊な形状と前方後円墳への系譜

楯築墳丘墓の最大の構造的特徴は、円丘部の北東と南西にそれぞれ通路状の突出部を持つ双方中円形の平面的広がりである。このうち片方の突出部が後に大きく発達・定型化し、古墳時代の象徴である前方後円墳へと発展していったとする説が有力である。

また、墳丘の斜面には礫石が敷き詰められ(後の貼石の祖形)、頂上部には巨石が立ち並ぶ立石(りっせき)遺構が存在していた。これらの土木技術や構造の系譜は、ヤマト政権の誕生期における初期古墳(箸墓古墳など)に直接引き継がれたと考えられており、前方後円墳のルーツが近畿地方単独ではなく、吉備地方の墳墓文化を強く吸収して成立したことを示す物証となっている。

特殊器台と弧帯文石が示す独自の祭祀世界

歴史学・考古学において、楯築墳丘墓が特に重視される理由の一つに、ここで完成された独自の祭祀遺物の存在がある。墳丘からは、赤色に塗られ、複雑な文様が施された大型の特殊器台特殊壺が多数出土した。これらの土器は、吉備の首長の葬送儀礼で使われた特別なものであり、後の古墳時代における円筒埴輪の直接のルーツとなったことが明らかになっている。

さらに、主主体部の近くからは、帯状の幾何学文様が複雑に絡み合う弧帯文(こたいもん)が刻まれた弧帯文石(旋回線文石)が発見された。この呪術的・宗教的な文様は、王の魂を鎮める、あるいは悪霊を防ぐための特別な意匠と考えられており、吉備の首長が極めて高い宗教的権威を有していたことを示している。このように、楯築墳丘墓は単なる墓という枠を超え、古代日本の国家形成期における政治と宗教(祭祀)の融合過程を解き明かす鍵となる遺跡なのである。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 水田に肥料となる青草や木の葉を踏み込むために、足にはいて用いられた木製の農具を何というか?
Q. 法隆寺金堂の柱などに見られる、柱の真ん中あたりがゆるやかにふくらんでいる、古代ギリシャの神殿などと共通する形状を何というか?
Q. 旧石器時代の終末期(中石器時代)に登場した、長さ数センチの小型の石器で、木や骨の溝にはめ込んで使われたものを何というか?