調
【概説】
律令制において、諸国の成年男子に課せられた主要な租税の一つ。絹や布などの繊維製品をはじめ、各地の多様な特産品(海産物、塩、染料、鉱物など)を朝廷に納める義務を指す。
大宝律令による税制の確立と「調」の役割
大宝律令(701年)の制定により、唐の制度を模倣した日本の律令税制(租・庸・調)が本格的に整備された。この中で調(ちょう)は、中央政府の財政を直接支える極めて重要な税として位置づけられた。課税対象となったのは主に21歳から60歳までの良民男性である正丁(せいてい)であり、そのほか年齢に応じて「中男(ちゅうなん)」(17〜20歳、のちに少丁)などにも軽減された額が課された。
調として納められた品目は、繊維製品である絹や絁(つむぎ)、糸、綿のほか、各国の気候や地理的条件に応じた海産物、鉄、漆、紙、塩、染料など多岐にわたる。これらは地方ごとの生産実態に基づいて国ごとに細かく品目が指定されており、大和政権が日本各地の特産物や経済活動を中央から統制・把握するための手段でもあった。集められた調は、中央官庁の運営経費や、貴族・官人たちへの給与である「位禄(いろく)」や「季禄(きろく)」の原資として用いられた。
「運脚」による輸送義務と農民の過酷な負担
地方で徴収され、そのまま国衙(地方官庁)の倉庫に貯蔵された「租(稲米)」とは異なり、調は(同じく中央財政を支えた「庸」とともに)都まで直接運ばなければならなかった。この輸送義務は運脚(うんきゃく)と呼ばれ、納税者である農民自身が自力で都(平城京や平安京)まで徒歩で運ぶという、事実上の過酷な労役を意味していた。
運脚に動員された農民は、自らの食料(糧米)を道中の分まで持参して旅立ったが、その道中は飢えや病、天候不良などによる困難に満ちていた。無事に都へたどり着いたとしても、帰路の食料が尽きて行き倒れ(飢死)になる者が後を絶たず、その悲惨な実態は『万葉集』などの歌にも生々しく描かれている。このような重い負担は、農民たちの生活を困窮させ、律令社会の基礎を徐々に蝕んでいく原因となった。
律令制の動揺から中世の「公事」への変質
平安時代中期に入ると、調などの過酷な税負担や運脚の労苦から逃れるため、農民が登録された戸籍から逃亡する「浮浪・逃亡」や、戸籍の性別を偽って男を女と偽る「偽籍」が急増した。これにより、人頭税(個別人身支配)を前提とした租庸調の徴収システムは維持できなくなった。
朝廷は10世紀初頭に、徴税の権限を現地の知事である「国司(受領)」へと全面的に委ねる方針へと転換した。これにより、課税の基準は「人(正丁)」から「土地(名田)」へと移行し、かつての調や庸といった特産物納は、土地に対して課される公事(くじ・くじもの)や「雑公事」へと姿を変えた。この税形態は、のちに成立する中世の荘園公領制における領主への年貢・公事の体系へと受け継がれていくこととなる。