鎮西御家人 (ちんぜいごけにん)
【概説】
鎌倉時代、九州地方(鎮西)に所領を持ち、鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ御家人の総称。源平合戦期における平氏追討と在地武士の組織化を契機に編成され、中世九州における幕府支配の軍事的・政治的基盤となった武士たちを指す。
鎮西御家人の成立と幕府の九州支配
鎮西御家人の起源は、源頼朝が平氏政権を打倒する過程にさかのぼる。1185年、頼朝は平氏の残党追捕と九州の武士団を統制するため、側近の天野遠景を鎮西奉行(鎮西守護)として派遣した。これにより、肥前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏といった九州の有力な在地豪族が幕府の傘下に入り、将軍と主従関係を結んで「御家人」として組織化された。
東国(関東)を本拠地とする鎌倉幕府にとって、遠隔地である九州の統治は容易ではなかった。そのため幕府は、太宰府に象徴される朝廷の伝統的権威を抑制しつつ、これら鎮西御家人に大犯三箇条(大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕)などの警察権を行使させ、在地支配を強化していった。
蒙古襲来(元寇)と最前線での戦い
13世紀後半に発生した蒙古襲来(元寇)において、鎮西御家人は防衛の最前線に立たされることとなった。1274年の文永の役、1281年の弘安の役において、彼らは襲来した元・高麗の連合軍と激しい死闘を繰り広げた。また、戦後も再度の襲来に備えて異国警固番役が課され、博多湾沿岸に築かれた石塁(元寇防塁)の警備など、長期にわたる軍役負担を強いられた。
しかし、防衛戦であった元寇では新たな領土(恩賞として分け与える土地)を獲得できなかったため、幕府は鎮西御家人に対して十分な恩賞を与えることができなかった。過酷な軍役費用を自己負担した御家人たちの多くは窮乏し、所領を質入れ・売却するなどして没落していった。幕府が発した永仁の徳政令(1297年)は、こうした鎮西御家人らの生活困窮を救済し、軍事力を維持することを主たる目的としていた。
鎮西探題の設置と鎌倉幕府の滅亡
元寇後の1293年、鎌倉幕府(北条氏得宗家)は九州の軍事防衛と裁判権の一元化、そして鎮西御家人の統制を強化するため、博多に鎮西探題を設置した。探題には北条一門の有力者が派遣され、これによって九州における政治の実権は北条氏へと集中していった。
この鎮西探題による強権的な支配と、恩賞問題に対する不満の未解決は、鎮西御家人の幕府に対する深い離反を招くこととなった。1333年、後醍醐天皇の宣旨や足利尊氏の挙兵に呼応して、少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らの有力な鎮西御家人が蜂起し、博多の鎮西探題(北条英時)を襲撃して滅ぼした。長年にわたり幕府の西国支配を支えてきた鎮西御家人の離反と蜂起は、鎌倉幕府滅亡を決定づける要因の一つとなった。