(第2次)山東出兵 (だいにじさんとうしゅっぺい)
【概説】
1928年、蒋介石率いる国民革命軍の北伐再開に対し、日本の田中義一内閣が居留民保護を名目に山東省へ二度目の軍隊派遣を行った事件。日本軍と国民革命軍との間で激しい武力衝突である済南事件を引き起こした。大正期の協調外交から昭和初期の積極外交への転換点を示す、近代日中関係史における重要な節目である。
北伐の再開と田中内閣の「積極外交」
1920年代の日本の対中国外交は、憲政会の幣原喜重郎外相による、中国の内政に干渉せず不介入を貫く「幣原外交(協調外交)」が主流であった。しかし、1927年に立憲政友会の田中義一が首相(外相を兼任)に就任すると、日本の満蒙権益を武力で守ることも辞さない「積極外交」へと方針が転換された。
同年に開始された第1次山東出兵に続き、1928年4月に蒋介石率いる国民革命軍が北京の張作霖政権を打倒すべく第2次北伐を再開すると、田中内閣は再び山東省の居留民保護を名目に、第6師団を中心とする大軍の派遣を決定した。これが第2次山東出兵である。この出兵は、単なる居留民の保護にとどまらず、満州(中国東北部)における日本の特殊権益を守るため、北伐軍の満州進入を阻止するという防壁的意図を強く含んでいた。
済南事件の勃発と衝突の激化
山東省の省都である済南に入城した日本軍は、1928年5月3日、進出してきた国民革命軍と武力衝突を起こした。これが済南事件(山東事件)である。
双方に多数の死傷者を出すなか、日本側はさらに増援部隊を送り込む第3次山東出兵を強行し、済南市内を軍事占領して中国側に謝罪と武装解除を要求した。この一連の軍事行動により、日中間の緊張は極限に達した。日本側は現地居留民が惨殺されたことを強調して国内世論を煽ったが、国際的には「中国の主権侵害」および「北伐の妨害」として厳しい非難を浴びることとなった。
山東出兵がもたらした歴史的影響
山東出兵は、1929年に日中間で協定が結ばれたことで日本軍が撤退し、一応の決着を見た。しかし、この一連の強硬策は、中国における国民意識(ナショナリズム)を急速に刺激し、中国全土で激しい排日貨(日本製品ボイコット)運動を巻き起こす結果となった。
また、日本軍の妨害を避けるために北伐軍が迂回したことで、満州の軍閥・張作霖は北京を維持できなくなり、満州へと逃れる帰路に日本の関東軍によって爆殺された(張作霖爆殺事件)。このように、山東出兵は日中の対立を決定的なものとし、のちの満州事変や日中戦争(支那事変)へと至る泥沼の対立関係の直接的な引き金となったのである。