東方会議

1927年、田中義一首相が外務省や陸海軍の首脳を集めて新たな中国政策を協議し、「対支政策綱領」を採択した会議は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
東方会議(Wikipedia)

東方会議

1927年

【概説】
1927年(昭和2年)に田中義一内閣が開催した、日本の対中国政策を決定するための首脳会議。外務省や陸海軍、関東庁などの実務派指導者が集まり、中国本土と「満蒙」を区別して後者の権益を武力で防衛する方針を策定した。これにより、従来の幣原協調外交から積極的な対外強硬外交への転換が決定づけられた。

幣原外交からの転換と会議の招集背景

1920年代後半の中国では、蒋介石率いる国民革命軍による北伐(中国統一と不平等条約の廃棄を掲げた軍事行動)が本格化し、現地の情勢は緊迫化していた。これに対し、日本の加藤高明内閣および若槻礼次郎内閣で外相を務めた幣原喜重郎は、中国の内政への不干渉と国際協調を掲げる「幣原外交」を展開していた。しかし、この融和的な方針は、軍部や右翼、野党の立憲政友会から「軟弱外交」として激しい批判を浴びることとなった。

1927年4月、金融恐慌をきっかけに若槻内閣が倒れると、立憲政友会の総裁である田中義一が首相に就任し、外相を兼任した。田中は対中政策の根本的な刷新を目指し、同年6月27日から7月7日にかけて、外務省、陸海軍の首脳、さらに満洲(中国東北部)の統治機関である関東庁の幹部や在華公使らを東京に招集した。これが東方会議である。

「対支政策綱領」の策定と「満蒙」の特殊化

東方会議において決定された基本方針は、1927年7月に「対支政策綱領」として発表された。この綱領の最大の特徴は、中国本土と、日本の権益が集中する「満蒙」(南満洲および東部内蒙古)を明確に区別し、それぞれ異なる対応をとる方針を示した点にある。

中国本土に対しては、現地の穏健派(のちに蒋介石の南京国民政府を支持することになる)の秩序維持を望み、原則として内政不干渉の立場を示した。しかし、満蒙については「帝国の国防上並びに生存上重大なる利害関係を有する特殊の地域」と位置づけ、他地域とは明確に区別した。そして、この地域において権益や治安が脅かされる事態が生じた場合には、中国本土の情勢に関わらず「断固として臨機応変の措置を執る」こと、すなわち武力行使による権益保護を厭わない強硬姿勢を打ち出したのである。

山東出兵と満洲事変へ至る歴史的意義

東方会議で確定された強硬路線は、即座に実行に移された。田中内閣は、北伐軍から居留民を保護するという名目で計3回にわたる山東出兵を断行し、日中両軍が武力衝突する事態(済南事件など)を引き起こした。これにより、中国側の反日感情は著しく高まった。

さらに、満蒙の支配強化を目論む日本の姿勢は、当時満洲を実質的に支配していた軍閥・張作霖との協調を破綻させることになった。満蒙の権益を守るために手段を選ばないという方針は、現地に展開する関東軍の暴走を誘発し、1928年の張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)を引き起こす要因となった。東方会議は、協調外交の枠組みを崩壊させ、のちの1931年に始まる満洲事変、そしてアジア太平洋戦争へと至る日本の軍事的膨張路線の起点となった点で、極めて重要な意味を持つ会議であった。

昭和史のかたち (岩波新書)

日本の近代史を多角的な視点から精緻に解き明かし、混迷の昭和という時代の本質を鋭く抉り出した決定的な一冊。

満州事変への道: 幣原外交と田中外交 (中公新書 302)

協調外交の崩壊と軍部台頭の分岐点を詳らかにし、日中関係の破綻へと至る歴史の必然を検証した重厚な歴史書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 藤原兼家の妻である藤原道綱の母が、夫の浮気に対する苦悩などを赤裸々に綴った日記文学は何か。
Q. 1912年、鈴木文治を会長として結成され、初期は労資協調や労働者の相互扶助を掲げた労働団体は何か?
Q. 国民精神総動員運動において、「堅忍持久」などとともに掲げられた、天皇や国家に対して忠誠を尽くすことを意味する四字熟語は何か?