(第1次)山東出兵 (さんとうしゅっぺい)
【概説】
1927(昭和2)年、中国の国民革命軍による北伐の進展に伴い、田中義一内閣が日本人居留民の保護を名目として山東半島へ軍隊を派遣した事件。幣原外交の協調路線から武力干渉を辞さない対華積極外交へと転換する象徴的な出来事であり、その後の日中関係悪化の契機となった。
北伐の進展と田中義一内閣の成立
1920年代半ばの中国では、軍閥が割拠する混乱を収拾するため、広東の国民政府が台頭していた。1926(大正15)年7月、蒋介石を総司令とする国民革命軍が中国統一を目指して北伐を開始すると、戦火は急速に中国南部から中部へと拡大した。当時の日本は第1次若槻礼次郎内閣であり、外相の幣原喜重郎は内政不干渉と列国協調を掲げる「幣原外交」を展開して、北伐軍に対する武力干渉を避けていた。
しかし、1927(昭和2)年3月に南京を占領した北伐軍の一部が外国領事館や居留民を襲撃する南京事件が発生すると、日本国内では幣原外交に対する「軟弱外交」との批判が沸騰した。さらに昭和金融恐慌の対応に窮して若槻内閣が総辞職すると、同年4月に立憲政友会総裁の田中義一が首相に就任し、自ら外相を兼任して中国に対する「対華積極外交」への転換を強く打ち出した。
第1次山東出兵の実行と経緯
田中内閣成立後の1927年5月、北伐軍が山東省に向けて北上を開始すると、田中首相は山東省の青島(チンタオ)や済南(チーナン)に在住する日本人居留民の生命と財産の保護を名目に、陸軍部隊の派遣を決定した。これが第1次山東出兵である。
日本軍は5月下旬に青島に上陸し、一部は内陸の済南へと進駐した。この出兵は、日本の権益が集中する満州(中国東北部)へ戦火が波及することを未然に防ぐという、戦略的な防波堤の役割も意図されていた。しかし、同年8月に北伐軍が徐州の戦闘で軍閥軍に敗北して南方に退却したため、日本軍と北伐軍との直接的な武力衝突は回避され、日本軍も同年9月には山東省から撤兵を完了した。
東方会議と対華積極外交の確立
第1次山東出兵が行われていた1927年6月から7月にかけて、田中内閣は東京で外務・軍部の首脳を集めた東方会議を開催した。この会議では、中国本土に対する内政不干渉の原則を維持しつつも、日本の特殊権益が存在する「満蒙(満州および内蒙古)」は本土と切り離して考え、満蒙の権益や治安が脅かされる場合には「断固たる措置(武力行使)」をとるという方針(対華政策綱領)が確認された。
この東方会議の決定は、日本の中国政策における重大な転換点となった。第1次山東出兵の段階では居留民保護という大義名分が強調されていたが、その背後には満蒙権益の死守という帝国主義的な国家目標が明確に据えられていたのである。
中国の反日感情と第2次・第3次出兵への布石
第1次山東出兵は直接的な交戦を伴わず早期に終了したものの、中国側のナショナリズムを強く刺激し、広範な反日運動や日貨排斥(日本製品の不買運動)を引き起こした。主権国家としての統一を目指す中国国民党からすれば、日本の出兵は明らかな内政干渉であり、領土主権の侵害であった。
翌1928(昭和3)年4月、蒋介石が北伐を再開すると、田中内閣は再び居留民保護を名目に第2次山東出兵を強行した。この時は前年とは異なり、済南で日中両軍による本格的な武力衝突(済南事件)に発展し、事態収拾のためにさらなる増兵(第3次山東出兵)が行われるという泥沼の様相を呈した。第1次山東出兵は、日本が中国の民族主義的統一運動に武力で対峙する道を選択した最初の決定的な一歩であり、後の張作霖爆殺事件や満州事変へと連なる日中関係の破局への導火線となった重要な歴史的事件である。