満蒙 (まんもう)
【概説】
近代日本が日露戦争以降に条約などで特殊権益を獲得した、中国東北部(南満州)と内モンゴル東部(東部内蒙古)を合わせた地域の総称。日本の安全保障や経済活動における最重要地域と位置づけられ、昭和初期の「生命線」思想のもとで満州事変や満州国建国へと至る、日本の対外膨張政策の主舞台となった地。
日露戦争と「満蒙」概念の誕生
1905年の日露戦争の勝利に伴うポーツマス条約により、日本はロシアから長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道(満鉄))や遼東半島先端部の租借地(関東州)などの権益を継承した。当初は「南満州」における権益確保が主目的であったが、第一次世界大戦中の1915年に中華民国の袁世凱政権に突きつけた対華21カ条要求(南満洲及び東部内蒙古に関する条約)を経て、日本は内モンゴル東部への進出も本格化させた。この過程で、地理的・政治的に一体不可分の地域として「満蒙」という独自の地域概念が形成され、日本の特殊権益地域として広く認識されるようになった。
「日本の生命線」と満蒙問題の表出
1920年代後半、世界恐慌による経済閉塞感が日本国内に漂うなか、中国では蒋介石率いる国民政府による北伐が進み、国家統一と主権回収運動(国権回収運動)が活発化した。これにより、中国側が満鉄に並行する鉄道を建設して対抗するなど(満鉄併行線問題)、日本の「満蒙」権益が脅かされる事態となった。これに対し、陸軍や右翼勢力、メディアなどは「満蒙は日本の生命線」というスローガンを掲げ、この地域を失えば日本の安全保障も経済も破綻するという危機感を煽った。こうして、資源確保と対ソビエト連邦防衛の拠点としての満蒙の維持・拡大は、日本外交・軍事の至上命令となっていった。
満州事変から帝国の崩壊へ
満蒙における危機感を背景に、現地軍である関東軍は武力による現状打破を画策した。1931年(昭和6年)9月、関東軍は奉天郊外で鉄道を爆破する柳条湖事件を自作自演し、これを契機に満州事変を引き起こした。関東軍は政府の方針を無視して満州全土を電撃的に占領し、翌1932年には清朝最後の皇帝であった溥儀を元首に据えて傀儡国家である「満州国」を建国した。これにより「満蒙」は事実上、日本の完全な支配下に置かれたが、国際社会の非難を浴びた日本は国際連盟を脱退し、孤立化の道を歩むこととなった。満蒙へのこだわりは、その後の日中戦争の泥沼化、さらには太平洋戦争での敗戦による帝国崩壊を招く決定的な契機となった。