箱館 (はこだて)
【概説】
現在の北海道函館市にあたる、蝦夷地南部の歴史的港町。江戸時代後期に豪商の高田屋嘉兵衛が拠点を構えて飛躍的に発展し、後に幕府の蝦夷地直轄化に伴い箱館奉行所が置かれた。幕末には条約港として開港され、近代日本の対外窓口および戊辰戦争の最終舞台となった。
地名の由来と初期の歩み
「箱館」という地名の由来は、室町時代の享徳3年(1454年)、津軽の豪族であった河野政通が宇須岸(うすけし)と呼ばれる地に館を築き、その形が箱に似ていたことから「箱館」と呼ばれるようになったとされる。江戸時代に入ると松前藩の支配下に入り、和人地の東端近くに位置する港町として、アイヌとの交易物資の集積地として機能した。
高田屋嘉兵衛の進出と都市の発展
18世紀後半以降、箱館が本格的な都市として発展するうえで決定的な役割を果たしたのが、淡路島出身の豪商である高田屋嘉兵衛である。寛政年間に箱館に進出した嘉兵衛は、日本海を往来する北前船を用いた海運業を展開し、幕府の要請を受けて国後島や択捉島への北方航路を開拓した。
嘉兵衛は単なる商業活動にとどまらず、大規模な造船所を建設して造船技術の向上を図ったほか、道路や港湾の整備、新田開発など多岐にわたるインフラ投資を行った。彼の多大な貢献により、一介の港町であった箱館は蝦夷地屈指の商業都市へと変貌を遂げたのである。
幕府の蝦夷地直轄化と箱館奉行の設置
18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロシアの使節であるラクスマンやレザノフが相次いで来航するなど、北方からの対外的な脅威が高まっていった。これを受けて、幕府は松前藩の蝦夷地統治に限界を感じ、蝦夷地の直轄化(天領化)を段階的に進めた。
享和2年(1802年)には蝦夷地を統治・管理するために蝦夷奉行が設置され、のちに箱館奉行と改称された。これにより、箱館は商業都市としての顔だけでなく、幕府の北方警備および蝦夷地支配の政治的・軍事的な中核拠点としての重要な役割を担うこととなった。
開港と幕末の動乱
嘉永7年(1854年)に締結された日米和親条約において、箱館は下田とともに外国船の寄港地として開港された。続く安政の五カ国条約でも貿易港に指定され、イギリスやロシアなどの領事館が置かれたことで、西洋文化がいち早く流入する国際的な開港都市となった。この時期、防備の強化と役所の移転を目的として、日本初の西洋式城郭である五稜郭も築造されている。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争の最終局面では、旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三らが蝦夷地に上陸して箱館を占領し、いわゆる箱館戦争の舞台となった。明治2年(1869年)に旧幕府軍が新政府軍に降伏して内戦が終結したのち、新政府によって蝦夷地は「北海道」と命名され、同年「箱館」は現在の表記である「函館」へと改称された。