張作霖爆殺事件(満州某重大事件) (ちょうさくりんばくさつじけん(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)
【概説】
1928年(昭和3年)、中国国民党の北伐に敗れて満州へ逃れる途上にあった奉天派軍閥の張作霖を、日本の関東軍が列車ごと爆破し暗殺した事件。日本国内では真相が徹底的に伏せられ「満州某重大事件」と呼称された。関東軍の独断専行が顕在化した事件であり、後の満州事変へとつながる昭和史の重大な転換点となった。
日本の満州権益と張作霖との関係
日露戦争以降、日本は南満州鉄道(満鉄)をはじめとする特殊権益を満州(中国東北部)に有しており、その保護を名目に関東軍を駐留させていた。この満州地域を本拠地として台頭したのが、馬賊出身の軍閥である張作霖(奉天派)であった。日本は当初、満州における自国の権益を保全・拡大するため、張作霖に対して資金や武器を援助し、彼を利用して満州への支配力を強めようとしていた。張作霖もまた、日本の支援を背景に勢力を拡大し、一時は北京政府の実権を掌握するまでに至った。
国民革命軍の北伐と関東軍の思惑
しかし、1926年に蔣介石率いる国民革命軍が中国統一を目指して北伐を開始すると、事態は急変する。国民党軍が北京に迫るなか、張作霖の軍勢は敗退を重ねた。当時の日本政府(田中義一内閣)は、満州への戦火波及を防ぐため、張作霖に北京から撤退して満州へ帰還するよう勧告した。田中首相は張作霖を依然として利用価値があると考えていたが、現地の関東軍の思惑は異なっていた。関東軍の高級参謀であった河本大作大佐らは、欧米のナショナリズムに影響されつつあった張作霖がもはや日本の意のままに動く傀儡としては不適格であると判断し、彼を暗殺して満州の混乱を誘発し、それを口実に一気に満州を武力占領するという過激な計画を企てたのである。
皇姑屯における爆殺と真相の隠蔽
1928年6月4日未明、北京から拠点である奉天(現在の瀋陽)へ向けて特別列車で引き揚げていた張作霖は、奉天郊外の皇姑屯(こうことん)付近の京奉線と満鉄線が交差する鉄橋に差し掛かった際、仕掛けられていた大量の黄色火薬によって列車ごと爆破された。張作霖は重傷を負い、まもなく死亡した。関東軍は直ちに「中国国民党の便衣隊(ゲリラ)の仕業である」という虚偽の発表を行ったが、国際社会や日本政府の一部には早くから関東軍の関与が疑われていた。日本国内では厳しい報道統制が敷かれ、この事件は真相が伏せられたまま満州某重大事件と称されることになった。
田中義一内閣の崩壊と歴史的影響
事件の真相を知った田中義一首相は、当初は首謀者を軍法会議にかけて厳罰に処す方針を昭和天皇に上奏した。しかし、軍部や閣内からの強い反発に遭い、最終的に「日本軍の関与はなかった」と前言を翻す曖昧な報告を行った。これに対して昭和天皇は「お前の言葉はちっともわからない。もう聞きたくない」と激怒し、天皇の信任を完全に失った田中内閣は1929年7月に総辞職を余儀なくされた。
また、張作霖の死後、後継者となった息子の張学良は日本への深い恨みを抱き、国民政府に合流する(易幟)道を選んだため、日本の満州における影響力はかえって大きく低下することとなった。この事件は、現地軍である関東軍による露骨な独断専行の始まりであり、政府や軍中央がこれを厳正に処罰できず、結果的に軍部の暴走を黙認する悪しき前例を作ってしまった。その意味で、わずか3年後に起こる満州事変、そして十五年戦争へと続く昭和史の暗転を決定づけた、極めて重要な画期であったと言える。