立憲帝政党

1882年、福地源一郎らを中心に結成された、自由党や立憲改進党に対抗して政府を支持する立場をとった保守政党(御用政党)は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
立憲帝政党(Wikipedia)

立憲帝政党 (りっけんていせいとう)

1882年〜1883年

【概説】
明治十四年の政変後に結成された、明治政府を支持する保守派の政党。福地源一郎らが中心となり、自由党や立憲改進党などの民権派政党に対抗して天皇主権の憲法制定を主張した、いわゆる「御用政党」である。

民権運動の政党化に対抗した「御用政党」の誕生

1881年(明治14年)、明治政府は「明治十四年の政変」において、大隈重信を追放すると同時に「国会開設の勅諭」を出し、10年後の国会開設を約束した。これを機に、自由民権運動は言論・請願運動から政党結成の動きへと急展開する。同年末には板垣退助らによる自由党が、翌1882年3月には大隈重信を総理とする立憲改進党が相次いで結成され、政府に対する批判勢力が組織化されていった。

こうした民権派の攻勢に対抗するため、政府の意向を代弁する擁護勢力として結成されたのが立憲帝政党である。1882年3月、東京日日新聞社長の福地源一郎、丸山作楽、水野寅次郎らが発起人となって結成された。民権派から「御用政党」と批判されたように、実質的に政府(特に伊藤博文ら主流派)の意思を反映した政治団体であった。

「主権在君」と欽定憲法を掲げた保守的綱領

立憲帝政党が掲げた政治主張の最大の特徴は、自由民権派の「主権在民」や「君民共治」に対抗する、徹底した主権在君(天皇主権)主義であった。彼らは、憲法は天皇が制定して国民に与えるものであるという欽定憲法(きんていけんぽう)の制定を主張し、議会制度についても衆議院と貴族院(のちの貴族院)による二院制の導入や、天皇の絶対的な裁可権・解散権の保持を求めた。

この主張は、のちに伊藤博文らが主導して制定される大日本帝国憲法の基本路線(プロイセン風の立憲君主制)とほぼ一致しており、政府が目指す近代国家像を民間に浸透させるためのイデオロギー装置としての役割を担っていた。また、言論活動においては、福地が率いる『東京日日新聞』などの新聞メディアを通じて、民権派の急進的な議論を「過激思想」として排撃した。

超然主義の壁と短命に終わった活動

政府の支援を受けて発足した立憲帝政党であったが、その活動期間はわずか1年半に満たない短命なものであった。その最大の理由は、国民的な支持を得られなかったことにある。自由民権運動が地方の豪農や都市の知識層を巻き込んで広範な支持を集めたのに対し、立憲帝政党は「政府の御用達」というイメージが強く、一般の支持を拡大することができなかった。

さらに致命的だったのは、身内であるはずの政府首脳からの梯子(はしご)外しであった。伊藤博文ら政府指導部は、政党が政治を左右する「政党政治」そのものを否定し、政府は政党の動向に左右されず超然として政務を行うべきであるという超然主義の立場を強めていった。政府首脳にとって、味方の政党であっても政党という存在自体が好ましくなかったのである。政府の冷遇と支持の低迷により、立憲帝政党は1883年(明治16年)9月に解党を余儀なくされ、民権派への対抗勢力としての役割を終えた。

明治自由党の研究 上巻

明治自由党の結成から衰退までを克明に辿り、日本近代政党史の黎明期を浮き彫りにする学術的価値の高い重厚な研究書。

【復刻版】福地源一郎「懐往事談(全)」(附)「新聞紙実歴」(改造文庫版)―幕末の激動の政治外交の見聞録 (響林社文庫)

幕末の外交交渉の裏側や新聞界の黎明期を、当事者である福地源一郎の鋭い視点と軽妙な筆致で描き出した貴重な回想録。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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