福地源一郎 (ふくちげんいちろう)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍したジャーナリスト、政治家、劇作家。号の桜痴(おうち)でも知られ、『東京日日新聞』の主筆として明治政府を擁護する論説を展開し、民権派に対抗して立憲帝政党を結成した人物である。
幕臣から言論界の寵児へ:『東京日日新聞』での活躍
福地源一郎は長崎の医師の家に生まれ、英語を学んで幕府の外国奉行通訳(通詞)となった。幕末には2度にわたり遣欧使節に随行し、欧米の新聞メディアと言論の力に強い感銘を受ける。維新後は大蔵省に出仕し、岩倉使節団にも一等書記官として同行したが、帰国後に官職を辞して言論界へと身を投じた。
1874(明治7)年、日本初の本格的な日刊紙である『東京日日新聞』(毎日新聞の前身の一つ)に入社し、のちに主筆となる。福地は自らの署名論説を「社説」として定着させ、巧みな文章で読者を魅了した。その論調は、大久保利通や伊藤博文ら藩閥政府の近代化路線を支持する漸進主義(徐々に改革を進める立場)であり、政府の代弁者(御用記者)とみなされる一方で、日本の初期近代ジャーナリズムの確立に極めて大きな足跡を残した。
自由民権運動への対抗と「立憲帝政党」の結成
1881(明治14)年の政変を経て、明治政府が10年後の国会開設を約束すると、自由党や立憲改進党といった民権派の政党が相次いで結成された。これに対し福地は、急進的な主権在民論や民約憲法論を否定し、皇室を擁護する立場から政治勢力の結成を模索する。
1882(明治15)年、福地は丸山作楽らとともに立憲帝政党を結成した。同党は、主権は天皇にあるとする「天皇主権」や、天皇が制定する「欽定憲法」の支持を掲げ、民権派と激しく対立した。しかし、政府(特に伊藤博文ら)が政党と距離を置く超然主義をとったことや、世論から「政府の御用政党」として敬遠されたことから支持は広がらず、結成の翌年である1883(明治16)年には解党を余儀なくされた。
言論界からの引退と劇作家「福地桜痴」としての後半生
立憲帝政党の解党や政府方針との乖離により、福地は次第に政治やジャーナリズムの第一線から退くこととなった。1888(明治21)年には『東京日日新聞』を離籍し、以後は文学や演劇の世界へと活動の軸を移していく。
福地はかねてより関心の深かった歌舞伎の近代化(演劇改良運動)に情熱を注ぎ、九代目市川団十郎らと協力して新しい時代にふさわしい歌舞伎(活歴劇など)を創出した。さらに、1889(明治22)年には木挽町(現在の東京都中央区銀座)に歌舞伎座を創設し、自ら劇作家として多くの脚本を執筆した。政治・言論から文化・芸術へと舞台を変えながらも、福地は明治という激動期において、常に近代化をリードするオピニオンリーダーであり続けた。