丸山作楽 (まるやまさくら)
1840年〜1899年
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した国学者、官僚、政治家。福地源一郎らとともに政府擁護派の政党である立憲帝政党を結成し、天皇主権を強く主張して自由民権運動に対抗した。
幕末の尊王攘夷運動から明治官僚へ
丸山作楽は天保11(1840)年、信濃国(現在の長野県)の藩医の家に生まれた。平田鉄胤に師事して平田国学を学び、幕末期には熱烈な尊王攘夷派の志士として京都などを舞台に活動した。明治維新後はその経歴を生かして新政府に出仕し、外務大丞や開拓判官などを歴任した。特にロシアとの樺太国境交渉などの対外政策に関わり、早くからナショナリズム(国権主義)的な思想を抱いていた。
立憲帝政党の結成と天皇主権論
明治14(1881)年の政変によって国会開設の詔が発せられると、板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党など、民権派による政党結成の動きが急進化していった。これに対し、政府側の官許の政党(御用政党)として、明治15(1882)年に丸山は福地源一郎、水野亀太郎らとともに立憲帝政党を結成した。同党は主権が天皇に存在することを前提とした欽定憲法の制定や、天皇大権の擁護を掲げ、自由民権派の主権在民論を強く批判した。しかし、政府が特定の政党と直接結びつくことを避けたことや、民間の支持が広がらなかったことから、翌明治16(1883)年に解散へ追い込まれた。丸山はその後も、一貫して保守・国権主義の立場から政治的発言を続けた。