山東省
【概説】
中国大陸東部、黄海に突き出た山東半島を中心とする省。第一次世界大戦期に日本がドイツの旧権益を軍事占領し、二十一カ条の要求を通じてその権益譲渡を中国に認めさせたことで、近代日中関係や国際政治における重大な焦点となった地域である。
ドイツの進出と権益獲得
19世紀末、帝国主義列強による中国分割が激化する中、1897年にドイツは自国宣教師の殺害事件(曹州教案)を口実として山東省に出兵した。翌1898年、ドイツは清朝政府に迫って膠州湾租借地(こうしゅうわんそしゃくち)を獲得し、青島(チンタオ)を軍港・要塞として整備した。さらに、山東鉄道の敷設権や沿線の鉱山採掘権も獲得し、山東省一帯を自国の強固な勢力圏として支配下に置いた。
第一次世界大戦と日本の軍事占領
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第2次大隈重信内閣は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した。日本の真の狙いは、東アジアにおけるドイツの拠点を排除し、中国大陸における自国の権益を拡大することであった。日本軍は山東半島に上陸して青島を攻略し、ドイツが保有していた膠州湾租借地や鉄道・鉱山などの権益をすべて軍事占領した。
二十一カ条の要求と「山東問題」の発生
1915年、日本は袁世凱政権に対して、いわゆる二十一カ条の要求を突きつけた。この要求の第1号(4カ条)が山東省に関するものであり、ドイツが同省に持っていた一切の権益を日本が譲り受けること、山東省内や沿岸の島嶼を他国に譲与・貸与しないことなどを中国側に認めさせた。この強圧的な要求は中国国内に激しい反日ナショナリズムを巻き起こし、日中間の最大の懸案である「山東問題」を発生させることとなった。
パリ講和会議と五・四運動
大戦後の1919年に開かれたパリ講和会議において、日本は英仏などの事前の承認を背景に、ヴェルサイユ条約で山東省における旧ドイツ権益の正式な継承を認められた。しかし、民族自決の機運が高まっていた中国ではこれに激しく反発した学生や知識人たちが北京で大規模な抗議デモを行い、これが全国的な反帝国主義・反軍閥運動である五・四運動へと発展した。この激しい世論の圧力により、中国代表はヴェルサイユ条約の調印を拒否する事態となった。
ワシントン会議における決着と権益還付
山東問題はその後も日中間の火種であり続けたが、1921年から開催されたワシントン会議の際、英米の調停によって日中両国間で枠外交渉が行われた。その結果、1922年に山東懸案解決条約が締結され、日本は膠州湾租借地を中国に返還し、山東鉄道を中国に売却することに合意した。これにより、第一次世界大戦以来の山東問題は一応の国際的決着を見た。
その後の展開と山東出兵
しかし、山東省をめぐる日中の対立は完全に消滅したわけではなかった。1920年代後半、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を進めて山東省に接近すると、日本の田中義一内閣は居留民保護を名目に三度にわたる山東出兵(1927〜1928年)を強行した。特に1928年の第2次出兵では日中両軍が武力衝突する済南事件(さいなんじけん)を引き起こし、両国関係は再び極度に悪化した。このように、山東省は近代日本のアジア大陸進出政策と、台頭する中国民族主義とが激しく衝突する最前線であり続けたのである。