大犯三カ条

鎌倉時代の守護に与えられた主要な職務である、大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕の3つを総称して何というか?
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重要度
★★★

【参考リンク】
大犯三箇条(Wikipedia)

大犯三カ条 (だいぼんさんかじょう)

1185年制定・1232年明文化

【概説】
鎌倉幕府が諸国の守護に付与した、京都大番役の催促、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕という三つの主要な軍事・警察的権限。1185年の守護・地頭設置に際して職務として規定され、1232年制定の『御成敗式目』において明文化された。鎌倉時代の公武二元支配体制において、守護の権限拡大を防ぎ、国司や荘園領主の権益を保護するための重要な制限として機能した。

守護の設置と大犯三カ条の成立

1185年(文治元年)、源頼朝は源義経や源行家の追討を名目に、朝廷から諸国に守護地頭を設置する勅許を得た(文治の勅許)。この際、幕府の地方官として国ごとに置かれた守護に対し、その職務として規定されたのが大犯三カ条である。当時、西国を中心に朝廷や荘園領主の支配力が依然として強く残存しており、幕府は武士による地方支配を波風を立てずに浸透させる必要があった。そのため、守護の権限を軍事と警察の領域に特化させ、在来の国司が持つ一般行政権や徴税権への介入を厳しく禁じたのである。

三つの権限の具体的内容

大犯三カ条の具体的な内容は、以下の三点から構成される。
第一は大番催促(おおばんさいそく)である。これは、管轄国内の御家人を編成し、京都の天皇や院の御所を警備する「京都大番役」へと動員・引率する権限である。
第二は謀叛人の逮捕である。幕府や朝廷に反逆を企てる者を討伐・捕縛する権限であり、国家の根幹を揺るがす重大な事態に対処するための軍事指揮権を意味した。
第三は殺害人の逮捕(夜討・強盗・山賊・海賊などの重大犯の逮捕を含む)である。これは平時の重大犯罪に対する検断権(裁判・処罰権)であり、平安時代からの追捕使などの権限を武家政権が継承したものであった。これら三つの職務は、いずれも当時の社会秩序を維持するために不可欠な治安維持機能であった。

『御成敗式目』による明文化と歴史的意義

鎌倉時代前期、守護の中には自らの武力を背景に国司の権限(国務)に介入したり、荘園領主の支配権を不当に侵害したりする者が後を絶たなかった。こうした越権行為を統制するため、1232年(貞永元年)に第3代執権・北条泰時が制定した武家初の基本法『御成敗式目(貞永式目)』において、守護の職権は大犯三カ条のみに限定されることが明確に成文化された。同法では、守護が国務に関与することや、非御家人に対して不当な支配を及ぼすことを固く禁じ、違反者は守護職を解任されると規定された。この厳格な規定は、鎌倉幕府が朝廷(公家)と幕府(武家)が並び立つ公武二元支配体制を尊重し、既存の荘園公領制を維持しようとする保守的・協調的な性格を持っていたことを如実に示している。

室町幕府における権限の拡大と変容

鎌倉時代を通じて守護の権限を縛る枷であった大犯三カ条の原則は、鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代の動乱によって大きな転換を迎える。戦乱の長期化に伴い、室町幕府は地方の治安維持のため、守護に強力な軍事動員力と在地支配権を与える必要に迫られた。その結果、大犯三カ条の権限に加えて、稲を強制的に刈り取る実力行使を取り締まる刈田狼藉の検断権や、幕府の判決を強制執行する使節遵行権が新たに守護へ付与された。さらに半済令(はんぜいれい)によって荘園の年貢の半分を徴収する権利まで獲得したことで、守護の権限は警察・軍事の枠を超えて経済的・行政的な領域へと飛躍的に拡大した。こうして大犯三カ条という制限的枠組みは事実上解体され、守護は領国を一元的に支配する守護大名へと成長していくこととなるのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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